【本作をお読みいただく前に】
※読まずに本文におすすみ頂いても構いませんが寄り道したい方へ

▲01 RKRN原作
51巻/62巻の幕間にあったらいいなというお話として書きました。

▲02 アニメ推奨回
【21期】
・豆を移す習い 36〜42話
・雷蔵の決断 66〜68話
ぜひおすすめです。

▲03 鉢屋衆と芸能にまつわる解釈
鉢屋衆から芸事に携わる人々が派生したという個人的な
見解とその延長として、三郎は能楽などの芸事にも詳しいという筆者の妄想を含んでおります。
なお筆者の能楽の知識は入門レベルです。どうぞご容赦ください。

▲04 物語始まりの二人の関係
付き合ってません。付き合ってはいないけれど、戦乱の世における不安を紛らわせるために口吸いをする仲です。

※注意事項※

※能楽を題材にしていますが、内容をご存じなくてもお楽しみいただけます。
※口吸いの描写があります。全年齢ですが、苦手な方はご注意ください。
※物語の始まりでは、雷蔵と三郎はまだ付き合っていません。
※戦乱の世の不安を紛らわせるために、口吸いを交わす関係です。
※ハッピーエンド予定です。
※5月の大阪インテ・鉢雷プチオンリーに向けて、完成・製本予定です。
※製本後、WEB再録を行う可能性があります。

それでは物語、しばしお付き合いくださいませ。

《PROLOGUE:無欲正直の君》

 夜、足先に透き通る氷が触れるような冷たさを感じて目が覚めた。
 その突然のできごとに驚き、ビクリと身体を震わせてうめき声をあげる。
 布団の中で、すっかり温まって心地良い眠りについていたというのに一体何が私の眠りを妨げたのか。
 体温を容赦なく奪い続けるその正体を確認してやろうと、目を開く。
「雷蔵……?」
 名を呼ばれた男は身体を震わせて、私にしがみついていた。
 その肌は夜風にでも当たっていたかのように凍えている。
「夜ふかしして本を読んでたら、冷えてしまって……眠れなくて」
 ごめん、三郎と謝る弱々しい声に私は余裕があるふりをして答えた。
「仕方ないなぁ、雷蔵は」
雷蔵が安心したようにふっと微笑むのが、灯りのない部屋の中でもわかる。
「お前、いつも寒がりだけど足、すごく温かいね」
 こうしていると、僕も眠れそうな気がするよ。雷蔵は最後にそう言うと間もなく寝息を立て始める。
 眠れずに残された三郎は考えを巡らせる。
 夜中、私と二人きりの君はこうも私を頼り、熱を求めるというのに。昼間の君は、何も求めない。
 我慢強いのか、それとも感情を押し殺しているのか。はたまた、持ち前の人の良さなのか。私には今のところ結論が出ていない。
 もっと雷蔵は自分に甘くてもいいのではないか。今こうして私の熱を求めてきたように――。
「普段からこうでいいのに、君って奴は」
 冷たかった雷蔵の肌が私と同じ体温に染まっていく心地よさに、いつの間にか私も目を閉じていた。

        ✧

 不破雷蔵という男の無欲さについて話をしよう。雷蔵にはどうもモノを人に譲りすぎる傾向がある。大抵そんな場面に出くわした時、隣にいる私は、雷蔵がどんな顔をしているのかと様子を伺う。どうにも平気そうな顔で、執着する様子も、後悔する様子もない。惜しむ気持ちはないのだろうか。やはりあげなければ良かったなどと、後から思ったりしないのだろうか。雷蔵が「僕はいいよ」と自分を犠牲にしてまで人に譲ってしまうのは何故なのか。不思議でならない。確かに、私は誰構わず欲しい欲しいとすがる雷蔵が見たいわけではない。だが、雷蔵が貪欲さを見せる瞬間だってあってもいいじゃないかと思う。

 学級委員長委員会で配られたカステラを雷蔵に一つわけた時のこと。ちょうどそこへ後輩の忍たまが通りかかった。物欲しそうにカステラを見つめ「いいなぁカステラ……」と目をキラキラと輝かせるその子に、雷蔵は今日も今日とてあっさりと譲った。
「いいよね? 三郎」
 否定されるなんて微塵も思っていないその眼差しに私はまごつく。
「雷蔵がいいなら、いいんじゃない?」
 カステラを受け取った忍たまは嬉しそうに頭を下げて去っていく。譲った当人は後悔の色もなくむしろその後輩の背を見守るような顔をしている。
「せっかくお前が持ってきてくれたのにごめんよ」
「いいさ」とは言ったものの、本当は内心、そんな雷蔵の行動が気に入らなかった。せっかく雷蔵の喜ぶ顔が見られると思ってカステラを持ってきたというのに。それなのに後輩に向けるそんな優しい眼差しを見てしまえば、私だって何も言えなくなる。

 遠征に行った帰りに寄った茶屋。二人で団子を買った。
 食べようとした団子の一本をうっかり地面に落としてしまった時のことだ。
 落ちた団子。皿の上の団子。最後に私の顔を見て雷蔵はニコリと笑う。
「僕はいいから、お前が食べな」
「えっ」
「僕よりお前の方が敵と刃を交えてよく動いていただろ? まだ学園に戻るまでは距離がある。ちゃんと食べておいた方がいいと思うんだ」
 その言葉は理にかなっている。雷蔵らしく効率的だけど、同時に切なさも感じる。涙こそ流さなかったが、私の中にはもやもやとした薄暗い陰りが残った。
「雷蔵、半分食べていいよ」
「ううん、僕は平気だよ。その代わり帰ったら食堂に行って一緒に美味しいご飯を食べよう」
 私達二人で買った団子。私は、雷蔵と二人で団子を食べたかったのに。

 ――欲のない君が人に譲れないくらい夢中で貪欲になってしまうようなものはないのだろうか。最近の私は、そんなことばかりを考えている。

      ✧

 まさに青天の霹靂とも言えるその一言が、雷蔵の口から発せられた時、私は嬉しさと驚きから、夢中で描いていたスケッチの手を止めた。

「三郎、蜂蜜ってどんな味がするんだろう?」

 普段、甘いものに興味を示さず、無欲な男がその疑問を口にした。
 一体、何が雷蔵にこのような気まぐれを言わせたのか。認めたくないけれどきっかけは図書委員会委員長の中在家長次だった。

 作法委員会委員長の立花仙蔵に扮して放課後、図書室に潜入したのは記憶に新しい。私は図鑑を片手に二人が楽しそうに蜂蜜の話をしているのを聞いてしまった。
「流石、中在家先輩。博識でいらっしゃる。教えてくださり、ありがとうございます」
 雷蔵が目を輝かせて、中在家長次を褒め称える。その言葉を最後まで聞いていられなくて、私は図書室を後にしたのだが、同時に感謝をせねばなるまい。沈黙の生き字引と呼ばれる中在家長次の博識さによってここ数日、どうにもならなかった私の悩みに一筋の光が差したのだから。
 しかし問題はその蜂蜜の希少さにあった。

「噂に聞く話だと金平糖や、砂糖よりも口の中に残る甘さらしいんだけど、お前は食べたこと、ある?」
 金平糖。砂糖。蜂蜜。どれも一般庶民では手にはいらないしろものだ。
 三郎、甘いものには目がないだろう? という期待の目が、たった今、この世で三郎だけを見つめているというのに、例えこの私であっても金平糖はもちろん蜂蜜も未だ口にしたことがない。唯一砂糖だけは南蛮菓子に含まれているので食べたことがあるくらいだった。
 雷蔵に嘘はつけない。私は正直に首を振る。
「私もその味を知らないんだ」
 確かに食べたことはないけれど、私は雷蔵が望むものなら例えどんな高級なものでも、手なんて届くわけないと笑われてしまいそうな程高価だったとしても手に入れたいと思う。
「そっか、お前も食べたことないんだ」
 蜂蜜は薬にもなるし高級だから、きり丸なら手に入れたとしても味わうことなくうまく売りさばきそうだよね、などと呟いている雷蔵に私は内心焦っていた。この機を逃してはならない。この話をここで途絶えさせてはならない。どうにか、蜂蜜を得る方法はないだろうか。
 心の中で密かに灯された熱い執着とも言える炎を雷蔵は知らない。
 長屋の扉が乱雑に開かれたのはその時だった。
 ドタドタと急ぐような足音。無遠慮な扉の開け方。
 誰が来たかはそれだけでわかる。
 同じ五年ろ組の竹谷八左ヱ門だ。
「雷蔵、三郎。学園長先生がお前達をお呼びだ。急げ」
「行こう、三郎」
 私は内心舌打ちしながら立ち上がる。
 もう少しで蜂蜜を得るための名案が浮かびそうだったのに、水を差された気分になって私はため息をつく。
「三郎、どうかした?」
「なんでもないよ、雷蔵」
 心配そうな雷蔵に微笑みながら私は重い腰をあげて学園長室へと向かった。

「というわけで、カステーラさんから頂いた南蛮の貴重な壺が手違いでドクタケ城に送られてしまってのぅ。あれは金楽寺の和尚に頼まれていたものであるから、取り返して欲しいのじゃ」
 赤い椿の花を鉢に活けながら、学園長が言った。その上機嫌な様子をみるにおそらく午後辺りに恋人との逢瀬があるに違いない。パチンパチンと花の枝を切り落とす音を聞きながら、呼ばれた二人は頭の中で考えを巡らせる。
 先に口を開いたのは雷蔵だった。
「その壺には一体何が入っているんですか?」
「貴重な“蜂蜜”が入っておる。あれは祭事や薬として役に立つものだからのぅ」
 なんたる好都合。なんたるタイミングの良さだろうか。
 天は我に味方した。
 三郎は背筋を伸ばした。
 チラと雷蔵を盗み見れば、雷蔵は表情を変えることなく平然としている。その瞳はさっきまで蜂蜜のことを話していたのが嘘のように真剣そのものだ。
 まさか興味がないなんてこと、ないよな? と三郎自身も不安になるほどの動じなさだった。
「ちなみに、誤ってドクタケに馬借便を手配したのは小松田くんじゃ」
「というと、学園長、また何か企んでおいでで?」
 雷蔵がすかさずドクタケ城に侵入するにあたって何か別の目的があるのではないかと学園長に問う。
 任務に真剣な君はどこまでも真面目だなと三郎は静かに黙って話を聞いていた。
「いや、今回は本当にへっぽこ事務員の所業だけで他意はない。ほんの事故じゃよ。よって不破雷蔵、鉢屋三郎に頼むのは裏も表もなく、その壺を取り返すという目的のみ」
 こればかりはその場の全員が表情を崩さずにはいられなかった。
 雷蔵は自分のした深読みに苦笑いをしていたが、私はこんなにも上手い話があるのだろうかと綻びそうになる顔を必死に取り繕う。
「それで、ここから先が重要なのじゃが――」
 学園長の話にはまだ続きがあった。そして、話を聞いた三郎の顔は雷蔵が心配する程にみるみる強張っていった。

       ✧

 私達が“蜂蜜”を取り戻しに向かうのはいいとして、何故タソガレドキ忍者隊と手を組まにゃならんのだ。

 鉢屋三郎は長屋に戻ると早々に嫌悪感たっぷりの嫌そうな顔をして悪態をつく。
「まぁ、まぁ三郎」
「だって、雷蔵、タソガレドキ忍者隊首領、雑渡昆奈門は前に悩んでいる雷蔵をボコボコにしたんだぞ。そんな奴と手を組むなんて私は嫌だね。信用できない。あの曲者に出会ったら、今度こそ私はキツイ一撃をお見舞いしてやる」
「わかるよ。だけどね、三郎。僕はお前と一緒に忍務に行けるの、嬉しいよ」
「……私も」
 どんな甘味でもこの笑顔には敵わないと私は思う。
「ねぇ、三郎、どう思う?」
「何が?」
「タソガレドキ忍者隊からこんな風に名指しで仕事の依頼が来るなんてさ。”忍者に向かない。忍者になどなろうと思うな”なんてことまで言われたんだ。少なくとも以前よりは認められているってことじゃないかなって……」
 そう言いながらもわずかに不安をにじませた雷蔵の瞳を私は見逃さない。
「あの曲者の頼みっていうのが気に入らないけど、雷蔵がそう言うなら、まぁ確かに悪くないかもな」
 私の雷蔵にあんな事を言っておいてよくもぬけぬけと共闘を申し入れてきたものだと本心では思っている。思い出しては余計に腹が立ってくる三郎に、雷蔵が小さく微笑む。
「三郎、一緒に頑張ろうね」
 頑張ろう、と言葉にする君は既に十分頑張っているというのに。
「もしかしたら蜂蜜も少しばかり食べれたりして?」
 三郎の言葉に「お前はまた……」と驚いたような顔をした後、くすくすと雷蔵が笑う。
 そんなわけないだろ? とでも言うように。なかなか真に受けてもらえそうになかった。
「――さぁ、さっそく僕に舞い方を教えてくれるかい?」
 人たらしの雷蔵にいつの間にか言いくるめられた三郎は忍務の準備に取り掛かることにした。
 もちろんタソガレドキへの怒りは一瞬、閉口しただけで収まってはいない。その怒りは、日中、五年ろ組の面々に鍛錬中にぶつけられることになるなどとはまだ竹谷八左ヱ門を含めた誰もが知らないことだ。

「学園長の話をおさらいするよ。僕達はドクタケ城御殿様の、木野小次郎竹高の前で能楽を舞うんだったよね?」
「そうだ。演目は高砂」
「高砂か。お祝い事に舞われるものだね。年越しの祝いの席にぴったりだ」
「ちなみに私達は松の精が扮した夫婦役さ」
 不機嫌だった三郎は“夫婦役”と口にしてから少し持ち直したように口元を緩めた。
「僕達に務まるかな」
「雷蔵とならなんだってこなしてみせるさ」
「ねぇ、三郎。夫婦ってどんなだろうね。僕は恋慕というものがよくわからなくて、あまりぱっとしない」
 笑いかけてくる君が見せるその笑みになんでもない顔をして答える。実は内心では雷蔵と高砂の話で夫婦や恋慕についての話などできると思ってもみなくて動揺していた。
「そうだな……幸せに満ちていて、はたから見ていても自然と笑顔になるような幸福の象徴で、祝福される存在といったところか」
「確かに。里芋行者さんとミス・マイタケのご夫婦をみているとそう感じる」
 雷蔵の口から聞く“ご夫婦”という言葉に、私は何故だかとてつもない不安を覚える。普段言わない言葉だからだろうか。いつも隣にいるはずの雷蔵がその言葉を言った瞬間、一歩遠くにいるみたいで落ち着かなかった。思わず話題を変える。
「演出上、後半も出なければならないから私が老翁を演じ、雷蔵が老女を演じる必要があるけれど、正直、私は雷蔵こそ老翁を舞う方があってるって思う」
「いや、今回、老翁はお前がやるべきだと僕は思う。いくら年の瀬の泥酔したドクタケでも小手先の技術では騙せないだろうし、お前の方が芸事も武芸も長けているからね」
「褒めてくれてありがとう、雷蔵。雷蔵にそう言ってもらえると俄然やる気がでる。心得た。私に任せてくれ」
 老翁の松の精は後半、住吉明神へと姿を変え、力強い舞で観る者を圧巻させる。私は雷蔵の舞う姿が観たいと思ったのだが、これは任務という前提を外した私のわがままだった。それに――老翁を雷蔵に舞ってほしいとは言ったが、誰構わずその舞を見せたいとも思わない。できれば私のためだけに舞ってほしい。
「ありがとう、三郎。頼んだよ。さっき学園長先生も話していただろう。近隣の城で舞いに失敗した能楽師が切腹させられた事件があったって。僕達、たくさん練習しよう」
 真面目な顔をしている雷蔵の肩をがっしりと掴んで、優しく引き寄せて、三郎はその耳元で囁く。
「雷蔵、怖いの?」
「怖くないよ。お前の方が出番も多いし、僕は心配で……」
「私のことを心配してくれたの? 雷蔵ぉ」
「三郎、ちょっと……くっつくなって……ほら、始めるよ」
 それから二人は日夜、舞いの練習に取りかかった。
 流石、私の雷蔵は持ち前の頭の良さと知識の深さから芸事への見事な理解力を発揮した。その体幹の良さも相まって、三郎が寂しさを覚える程にあっさりと舞いを習得したのだった。そのことを雷蔵に伝えても雷蔵は照れたように笑う。
「他でもない手ほどきしてくれたお前にそう言われると嬉しいよ」
 手ほどきという言葉はとても甘美なのに、楽しみなもの程、早く終わってしまうのはどうしてだろうか。師走の凍えるような寒さの中、吐く息も白くなった長屋で私は密かに幸せを嚙みしめた。
 刻一刻と迫るその日を目前に本番まで、指折り数えるだけになったある日。
 私達はついに通しでその舞を舞えるようになった。

   高砂の松は相生の松(高砂の松は根を一つにして二本に分かれた相生の松)
   住吉の松も相生の松(住吉の松もこれまた同じ、相生の松)
   これぞ夫婦の契りなり(これぞまさに夫婦の契り)

 雷蔵が謡(うた)い、舞い始めると、びりっと空気が震える。今、役になりきったのだとわかる。何者かが雷蔵に取り憑いて場を支配しているかのような気配。弛んでいた糸が張り詰めるようで見ている三郎は息を忘れる。
 美しかった。悠々と舞った雷蔵が目に焼き付いて離れない。
 役に徹する雷蔵の舞は、当然、住吉の松を思ってのものだ。
その目に映るものは老翁であって私ではない。わかっている。
 けれど、雷蔵の舞を見て、ずっと自分の胸の奥で形にならなかった思いに、輪郭ができた。高砂の松と住吉の松が互いを敬い求めあう——あの関係はなんて理想的なのだろう。それはまさに私がいつの間にか望んでいたものだった。
 ここしばらく、無欲な雷蔵について悩んできた。私は雷蔵にただ貪欲でいて欲しかったわけではない。もっと他でもない、“私”を見て、求めて、頼って欲しかったのだ。そう気が付いてから、しばらくの間、私の心はどこか憂鬱だ。

《舞迷い》

 ――雷蔵と一緒に舞うことができる。それだけで嬉しいはずなのに、ここ数日の私はどこか調子が悪い。雷蔵の舞を思い出す度、理想と現実の違いに焦燥が胸をかすめる。

 大みそかの真夜中。泥酔した大人達の狂乱の前で舞を舞っていた。
 祝いの席ということもあり、すっかり酒の回った殿様とドクタケ忍者隊を騙すには十分過ぎるほど、雷蔵と三郎は舞をやり遂げたはずだ。
 ――この有様じゃ真面目に舞を見ていた人間などどれほどいるのか。
 三郎は呆れるばかりだった。
 高砂の謡を高らかに謡いながら舞い、それからそそくさと退散するまであっという間だった。
 
 ドクタケ城から難なく抜け出して、城の領域から出た先。
 二人はタソガレドキ忍者隊と落ち合った。
 あらかじめ決めていた約束の場所に行くと、組頭の雑渡昆奈門が膝を揃えた独特な座りで待っていた。
「短い間でよく仕上げてきたね。二人とも大変よくできました」
「お前に褒められても嬉しくないからな」
「雷蔵くん随分とよくなったみたいだね」
「その雷蔵は誰かさんのせいで一度スランプに陥ったんですけどね」
「そうだったっけ?」
「とぼけたって無駄だ」
「組頭、そろそろ」
「ああ、そうだったね」
 雑渡昆奈門が音もなく三郎との距離を詰めた。
「でも、鉢屋君、君はどうだろう」
 そっと耳打ちをする。それから、三郎にだけ聞こえるように、そっと疑問を口にした。
「何か雷蔵くんのことで悩み事でも?」
「そんなものあるわけ……」
「そう? 気のせいならいいのだけれど。それにしても首の皮一枚繋がってよかったね。あんな舞じゃ、ドクタケは騙せてもうちの殿なら騙せなかったよ」
 今にも懐に入れた鏢刀を取り出しそうな三郎の前から雑渡昆奈門が退く。
 ドクタケ忍者隊の者がすかさず前に出て、三郎の腕に壺を渡した。
「こちら、今回頼まれていたものになります。我々で奪還はしましたが、ドクタケが祝い事にと南蛮菓子作りに使ったらしくてちょっと減っております。心配には及びません。まだ中身は残っていましたから。では」
「もっと強くなった君たちに会える日を楽しみにしてるよ」と雑渡昆奈門が付け加える。
「まだ話は終わってないぞ」と食いかかろうとした三郎は雷蔵に止められた。
 しばらく悔しそうにタソガレドキ忍者隊の飛び去る背中を睨みつけていたが、諦めたように踵を返して帰路の方角へと走り出す。
「雑渡さんになんて言われたの?」
「なんでもない」

 忍術学園五年生の二人に背を向けて、足早に掛ける雑渡昆奈門の元に、部下の押都長烈がそっと近づいた。
「青いですね」
 押都長烈の言葉に雑渡昆奈門は眩しそうな目をする。
「青いねぇ」
「あの二人、どうなりますかね……」
「さてね。でもまぁ、楽しみだよね」

《奉蜜》

 森の中、早足に先を進んでいく三郎を、雷蔵が引き止める。
「お前、血が出てるじゃないか」
 三郎自身も気が付かなかった。腕にいつの間にか擦り傷が出来てそこから血が流れ出ていること。その血がポタポタと地面を濡らしていたこと。
 タソガレドキ忍者隊と別れた後、いつの間にか黒雲に月が隠れ、すっかり闇へと化した森の中を、手探りで歩いてきた。どこかで枝葉にでもやられたのだろう。人の身とはこうも儚い。
「いつ怪我をしたのか、まるで覚えがない」
 自分でも驚いている三郎を雷蔵が引っ張り、進行方向から道を外した。
「手当しなきゃ。ひとまず状態を見たい。明るい場所に出よう。この近くに、少し開けた小川があったはずだ。ドクタケの領地からはもう出ているし、行こう」
 三郎は言われるがまま川辺まで雷蔵に引っ張られて歩いた。
 気がつけば雪が降り出していて、前を歩く雷蔵の肩には淡雪がついている。
 払ってやりたいのに、どこか身体がだるい気がして手が伸びなかった。
 水辺に着くとすぐに雷蔵は三郎の傷口を見た。
 皮膚から赤い鮮血が流れ落ちていくのがなかなか止まらずポタポタと垂れて、地面に吸われる。傷は思ったよりも深いらしい。
「もしかして、彷徨っていた霊魂に連れてかれそうになってたりしてね」
「それだけ戯言を言えれば平気だね」
「さては信じてないな?」
「信じるも何も、こんなことでお前を彼岸に連れてかれちゃ僕も困るからね……傷、結構深そうだね」
 しばらく傷口の様子を見ていた雷蔵が、驚いたことに、持っていた壺の蓋を迷わず外す。
「雷蔵、何するの?」
「蜂蜜は防腐にもなるし、傷口に塗ると効くって本で読んだんだ」
「こんな高価なものを私の擦り傷ごときに使っては、後で和尚様に叱られるよ?」
「ならそれでいいから、お前も後で僕と一緒に叱られてくれ」
 雷蔵が指先で蜂蜜を掬う。
 三郎は本当にやるのか? と雷蔵を静かに見つめた。
 雷蔵の指先に蜂蜜が伝う。この神秘的な蜜に触れたことのある人間が一体どれほどこの国にいるだろう。雷蔵は迷わずそれを私に使うのかと考えただけで、胸の高鳴りがどうにも煩くなる。
 当の雷蔵はそんなこと気にする素振りも見せずに、とろとろと柔らかい液体をゆっくりと三郎の傷口に塗りつけていく。
 見た目とは裏腹にべったりと粘つく飴色の蜜。
 その指に優しく触れられるごとに、びくりと身体が震える。
 肩で吸った息をゆっくりと吐くと、雷蔵が心配そうに私を見つめた。
「痛い?」
「……全然、平気」
「蜂蜜は神仏に供える神聖なものだから、きっとお前に憑いてるっていう霊魂とやらも浄化してくれるかもしれないね」
「あれは、冗談だって」
「なら良かった」
 それから雷蔵は慣れた手つきで頭の三尺手拭をしゅるりと解く。傷口にその布を巻いて、しっかり固定してくれた。
「ありがとう、雷蔵」
「うん。金楽寺に戻ったら改めてちゃんと手当てしてもらおう」
 無事に手当ても終わり、最後に蜂蜜の入った壺に蓋をつけようとする雷蔵を、三郎はさりげなく止める。
「どうしたの、三郎?」
 もしかしたらこの先一生、こんなチャンスは巡ってこないかもしれない。
 この目の前にある壺はそれ程に希少なものだ。

 ――三郎、蜂蜜ってどんな味がするんだろう?

 他でもない、私の名前を呼んで、私に明かしてくれたその一言をずっと忘れられないでいる。今、その、何でもないような疑問を君のために晴らせるのなら私はその機を逃したくはない。
「雷蔵、蜂蜜食べてみないの?」
 雷蔵は、じっと私の方を見て、また何か企んでいるな? と疑いの目を向ける。
「……みないよ」
「だって、そんなことしたら金楽寺の和尚様が困るだろう? ただでさえドクタケが無駄遣いしてたんだから」
 雷蔵は真面目なんだから。内心浮かんだ言葉に苦笑する。
「なら、そうだな……私も食べてみたいな。雷蔵。私と一緒に食べようよ」
「三郎と一緒に?」
 雷蔵の手にしていた壺をもらい受け、中の蜜を指先で掬う。壺から掬った蜜が垂れないようにしながらも、絹よりも柔らかいそれを雷蔵の唇にのせた。
 紅をつけるようにして口端から口端までなぞると、唇がぷっくりと水気を含んで膨らんだように濡れる。
 されるがままの雷蔵が私を拒否することはなかった。
 静かに凪いだ川辺。誰もいない二人きりのその場所で私は雷蔵を見つめる。
 ここまできて、雷蔵の瞳にある迷いはまだ消えていないようだった。
 仕方ないなと私は首を傾げる。
 それから、その整った唇をそっと優しく舐めとる。蜜を塗られてひんやりと冷たい。
 驚いた雷蔵がわずかに口を開く。
 すかさずその口内へと蜜を届けるように、舌を差し入れた。
 脳天まで突き抜けるような甘さの蜂蜜。二人、味わう。
 雷蔵の舌を絡め、押し付けるようにその蜜を舌先に置く。
 蜜は二人の舌の上で程なく形を無くし、溶けていく。
「んっ、はぁ……どんな食べさせ方してるんだよ、三郎」
「だって、雷蔵は少しでも壺の中身を減らしたくはないだろう? ならこれが一番いい方法だと思ったのさ」
「だからって口吸いなんて……」
 二人の間で口吸いといえば、いつも眠れない夜にするものだった。
 互いが崩れないため。生きるため。明日の命さえも不透明な世の無常から逃げるように、互いの熱を感じ合えばよく眠れた。
 そういった行為の一環を、まさか蜂蜜を食べることに利用するとは思ってもみなかったのだろう。
 雷蔵が口吸いについて悩み始める前に、三郎が話題をすり替える。
「それで、初めての蜂蜜のご感想は?」
「……こんな味、知ってしまってよかったのだろうか」
「知らないよりはいいだろう」
 穏やかな夜風に雲が流れ、再び朧気だが月が姿を見せる。
 蜂蜜と唾液に濡れた雷蔵の唇を月明りが照らしだす。
「お前と食べられて良かった」
 雷蔵が三郎を見つめた瞬間、今、雷蔵が瞳に宿しているのは他でもない三郎自身なのだという安心感があった。
 もう一度、まだその口端に残っていた蜂蜜を舐め取り、雷蔵の口内を舐る。
 先程までされるがまま、微動だにしなかった雷蔵が今度は後追いするように三郎の舌に自ら舌を絡めた。
 蜂蜜だけではなく三郎の舌ごと味わうようにうごめく。舌先で溶けあい、混じり合った唾液と共に静かに雷蔵の白い喉の奥へと流れていった。
 ゴクリと喉が鳴り、音を立てて下っていく蜜に、もっと欲しいと喉が渇く。
 こんなに高価なものをまだ足りない、欲しいなどと思ってしまうのは自分だけなのだろうな。離れていく唇に寂しさを覚えた。
「私と、君しか知らない味だ」
 雷蔵の瞳が遠慮がちに壺を見つめる。
「雷蔵、もう一口だけ食べてみる?」
 三郎がおどけて言うと雷蔵が少し間を空けてから答える。
「……もう一口だけでお前はいいの?」
 ――僕はお前ともっと……。
 それ以上の言葉を言う前に、わずかに上気した頬の雷蔵が俯いた。
 その頬にそっと手を添えれば、まだ物足りない、欲しいと訴えるように静かにその瞳が揺れていた。
「心得た」
 三郎が嬉しさと緊張でわずかに震える指先で、蜂蜜を掬う。
 雷蔵は三郎の指先を追うように見つめ、口元を期待に歪ませる。
 雷蔵の唇に蜜を運ぶと、三郎に全て委ねるかのように、自ら口を開いた。

 金楽寺に着いたのは明朝、日の出より少し前のことだった。
 片手に明かりを持った和尚は雷蔵が手にしていた壺を見て大いに喜んだ。受け取ると満足そうに二人を見渡す。
「二人とも、ドクタケから大事な壺を取り返してくれてありがとう」
 それから、壺の蓋を開け、中身を確認して首をかしげる。
「ところで、頼んでいたよりだいぶ量が少ないようじゃのう? 何か知っておらぬか」
「和尚様、すみません。その大半はドクタケが南蛮菓子調理に使ったと聞いておりますが……」
 雷蔵がまず説明をして、それから三郎が続ける。
「実は帰りの道中、私が怪我をしまして、手当に使いました。それと……」
 二人して言いづらそうにして、最後に雷蔵が申し訳なさそうに和尚に告白した。
「どうしてもその、僕達、蜂蜜を食べてみたくて、少しばかり頂戴してしまいました。申し訳ございません」
「ごめんなさい」
 包み隠さず弁明した後、頭を下げる二人に、金楽寺の和尚は「ほう」と少し考えた末、気前よく笑い出した。
「素直でよろしい。元より失ったも同然だったこの壺を取り返してくれた。中身もちゃんと残っておる。それにまた直にカステーラさんが手土産に持ってきてくれるじゃろう」
「和尚様……」
「よいよい。ただし、二人には少々、寺の手伝いをしてから帰ってもらおうかのぅ。年明けの寺は大忙しじゃからのぅ」
「なんでもします」
「お任せください」
 二人は和尚に再び頭を下げるとさっそく手伝いを始めたのだった。

 箒をはく雷蔵の髪の毛に雪が絡まっていた。私がはらうと、雷蔵はありがとうと言う。
 そうして合う瞳は穏やかで、「お前の髪にもついてるよ」と今度は三郎の頭に触れて雪を払ってくれる。
 私の髪がもっと栗色だったら。鼻筋がすっと長く通り、瞳は優しくて、穏やかに弧を描く唇だったら。
 もっと君の気持ちがわかるのだろうか。ずっとそんなことを考えて学園生活を送ってきた。
 もう少しでわかりそうな君の心が、いつも薄氷に阻まれているようでもどかしかったのに、今朝は少しだけ君との距離が近づいているような気がする。

《もう一度、記憶の中の蜜の味》

 ――三郎と二人きり。夜の川沿いでした口吸いは、血の匂いと甘い蜂蜜の味がした。
 あの口吸いは蜂蜜を分け合うためだけの行為にすぎない。
 ただ優柔不断な僕のために三郎がしてくれたもので、それ以上もそれ以下もないのだとわかっている。

 昼間、中在家先輩に頂いた団子を図書室の前の庭で後輩達と食べていた時、ふと“これでは物足りない”と思ってしまった自分に戸惑う。せっかく任務の帰りに先輩が買ってきて下さったというのに僕はなんて罰当たりなんだろうと内省する反面、あの夜が恋しくなる。
 授業の自習の時間や図書委員会の活動が終わって一人ぽつんと座っている時。
 廊下を一人歩いて長屋へ向かう道で。
 夜中、布団に足を滑り込ませた瞬間に。
 ふと湧きあがるように三郎と食べた蜂蜜の記憶が浮かぶ。
 雪舞う寒空の下。二人で食べた蜂蜜の味。喉を通った甘さはまるでずっとそこにあり続ける微熱のようだった。
 こんな味、知ってしまっていいのだろうかと戸惑う程、食べた蜜は甘くとろけていた。その感覚を思い浮かべては、また食べたいと思うのだ。

 初めて蜂蜜を食べた夜から三日三夜が過ぎた。長屋で蔵書の補修をしていた僕は、背中にある三郎の気配に少し落ち着かない。
 三郎はあの蜂蜜の味をまだ覚えているだろうか。
 また食べたいとは思わないのだろうか。

 聞きたくて、喉まで上がる言葉を言いかけては飲み込み、また迷っては押し戻す──そんなことを何度も繰り返していた。
 三郎が「雷蔵、また何か悩み事?」と隣にきて僕に聞く。
 どうして三郎はいつも僕が困っているとわかるのだろうかと不思議だ。
 僕は本から顔をあげて遠慮がちに三郎を見た。
「蜂蜜を食べたいなって思って」
「……私もだ」
「また、食べれるかな」
「また食べる機会はあるさ」
 少しずつ記憶がおぼろげになっていく。確かに味わったはずの蜜の味覚は、たった三日程度で僕の中から徐々に失われつつあった。僕の舌先にのっていた甘露とは一体どういうものだったのか。一人で自問して、むなしく記憶が薄れゆくのをただ感じている他なかった。
「あれからまだ三日なのに、私はもう蜂蜜の味を忘れかけている。寂しいもんだ」
 三郎も一緒で、幻でも食したかのような顔をしている。
「――三郎、僕、いいことを思いついた」
 僕はこの三日で、ついに思いついた案を三郎に言おうか迷う。
「言って、雷蔵。聞きたい」
 三郎が静かに隣で僕の言葉を待っている。
「蜂蜜を今すぐに食べることはできないけれど、あの味を思い出すことならできるかもしれない」
「どうやって?」
「もう一度、あの日と同じことをすればいいと思うんだ」
「それって――」
 三郎の驚きにもうなづける。僕はどうにも突拍子もないことを言っている。
 自覚はもちろんあるけれど、それが考えに考えた結果だったのだから仕方がない。
「えっと……もちろん、三郎が嫌じゃなければ、だけど」
 沈黙を続ける三郎を僕はしばらく待っていたが、堪えきれなくなった。
「やっぱりやめよう」と言うと、三郎が焦ったように首を振る。
「……嫌じゃない。嫌なわけ、ないだろ。私は賛成だ」
「本当? なら、早速やってみてもいい?」
 三郎の方に向き直ると、三郎もまた同じように動く。鏡のような三郎を目前に僕は自ら三郎の肩に手をついた。
「本当にいいんだね?」
「あぁ。いいよ」
 僕は覚悟を決めて三郎の瞳を見つめる。
 いつもの余裕そうな笑みはなく、今は研ぎ澄まされたように穏やかな表情をしている。
「三郎、唇……触るね」
 変装名人は顔に触れられるのを嫌がるだろうから、ちゃんといいか確認をとる。
「あぁ」
 それから、三郎にされたように、その唇を指先でなぞる。
 外は雪が降りだすほどの寒さだったから、三郎の唇はあの晩と同じく冷たくひんやりとしている。
 無性にその唇が美味しそうに見えて、僕は三郎に食べさせられた蜂蜜を思い出しながらその唇をなめた。
「んっ……」
 ひんやりと冷たくて、甘い。
 記憶と、今確かに感じている三郎の唇に触れた感覚で僕の頭は錯覚を引き起こしているようだった。
 三郎の舌先が僕の口内に差し込まれ、それからしばらくして僕の喉が鳴る。混じり合った唾液が喉を落ちていく心地よさに体がびくびくと震えた。
 くちゅりと音を立てて、離れていく唇に寂しさを覚える。
「甘い……三郎。もう一回、してもいい?」
 三郎が頷く。僕は再び自ら三郎の唇を味わうように吸った。
 僕はどこかおかしくなってしまったのだろうか。
 口吸いは記憶を思い出すためだけの手段にすぎなくて、甘いものを実際に食べているわけじゃない。なのにどうしてこんなにも三郎との口吸いは甘いのだろう。小さな歪みを見つけてしまった僕は、ずっと理由を探して迷い続けている。

 ――蜂蜜の味を思い出したい。

 その言葉を合図に僕達は時々口吸いをするようになった。
 互いの舌先にその記憶にある甘美な甘さを求めあう。
 三郎の柔らかくて熱い舌先が口内を舐る瞬間、僕はあの晩に起こったことを思い出す。
 三郎との口吸いだけが、今あの晩への記憶につながる唯一の手段だった。
 蜂蜜の味はほとんど消えて忘れてしまっているのに、こうすると一つ一つ紐を手繰り寄せるように思い出すことができた。
 三郎と二人。蜜の甘さを共有したこと。
 手当てした三郎の血の匂い。
 川のせせらぎにまじる、唾液と蜜が混じり合う音。
 熱くて甘い蜜が喉奥に下る心地よさ。
 月の光が差したり消えたりと、何度か繰り返す間に、僕達はただ夢中で蜂蜜を味わい尽くした。
 蜂蜜などなくとも、僕は三郎と口吸いすると確かにその甘さに頭がしびれて、身体が熱を持ち、とろけてしまいそうになる。
 三郎が僕の濡れた唇をそっと指先でなぞり、それから静かに口吸いをするのがいつの間にか癖になっていた。

 最初は、確かに蜜の味を思い出すためという名目だったはずだ。
 それがいつの間にか、口寂しくなると三郎に誘い文句を言っている自分がいる。
 蜂蜜の味を思い出したい。そう誘うのが僕ばかりじゃないというのがせめてもの救いだった。
「雷蔵、私、またあれ食べたいな」
 三郎も僕と同じように、あの甘さを共有した夜の記憶を大切にしているのだと思うと正直、とても嬉しい。
 でも、時々胸のあたりに不安が襲う。
 本当に――僕たちはこんなことを、続けていて良いのだろうか。
 そんな答えの出ない悩みを頭の片隅に置きながらも僕達は人目を盗んで口吸いをした。
 朝起きて身支度をしている合間に。
 誰もいない廊下や教室で。
 図書室。二人きりの穏やかな夕方。
 今日もまた、放課後、誰もいないろ組の教室。学級日誌を書いていた三郎の隣で本を読んでいると、名前を呼ばれる。振り向くと、僕は三郎に口吸いをされた。
 ビクリと身体が跳ねる。
 最近、一回一回がやたらと長くなっていて、三郎は口吸いをなかなかやめてくれない。
 腰のあたりにじわりと熱が集まっていくのを必死に隠しながら僕は三郎を拒まない。
 指先を絡め合い、畳の上に押し倒される。僕達はなおも口吸いを続ける。
 酸欠になって朦朧としても覆いかぶさる三郎は退いてくれやしない。
 徐々に腰のあたりに甘いしびれを感じはじめた時、廊下でドタドタと足音が聞こえた。足音は五年ろ組の教室へと近づいてくる。
 体が思うように動かず、焦る。
 起き上がった三郎が僕の顔に、自ら頭巾をほどき、そっと乗せてくれた。
 教室の扉が開いた。
「雷蔵先輩、いらっしゃいますか?」
 図書委員会の後輩、能勢久作の声だった。
「どうしたんだ、久作。そんなに慌てて」
「雷蔵先輩、と……鉢屋先輩は居眠り中ですか?」
 呆れている久作に、僕のふりをした三郎が穏やかに笑って答える。
「あぁそうなんだ。なかなか起きなくて」
 呼吸をどうにか整えながら、二人の会話を寝たふりをして聞く。
 火照った体のせいで頭がぼうっとして、その会話すらどこか遠くで繰り広げられているように聞こえた。
「で、雷蔵先輩が学級日誌を代わりに書かれてるわけですね」
「あはは……三郎も疲れてるから、たまには手伝ってやろうと思ってね。それでどうかしたのかい?」
「それが、中在家先輩がお呼びでして……一緒にきて頂けますか?」
「それは急がなくちゃな」
 側にいた三郎が立ち上がり、隣から気配が消えた。
「あの、鉢屋先輩はそのままでいいのですか?」
「あぁ――。今は寝かせてやろう」
 二人の足音が遠ざかっていく。
 教室に一人残された僕は程なくして、静かに起き上がった。
 ――久作の相手ができなかった。
 咄嗟に僕のふりをして三郎が、対応してくれたから誤魔化せたけど、これは本当の、本当に、良くないことだ。
 あまりの不甲斐なさにしばらく膝を抱えて丸くなり、反省した。

「僕、当面お前とこういうことはやめる」
 夜、長屋で宣言した時、三郎の瞳が切なそうに揺れていた。
 だけど、僕はこれでいいと迷わず思う。これ以上、三郎と口吸いばかりするのはダメだ。理性がそう訴えていた。

(つづきは5月インテ大阪鉢雷プチオンリーに向けて誠意制作・製本予定です。)

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