
――紫陽花は匂い袋の主役にはなれないけれど、美しさ故に人を魅了する。
一年生の頃、不破雷蔵に言われた言葉を今でも一言一句違えずに覚えている。
あの言葉を一人の時、声に出してみると私は私のままでいいのだと安心できる気がして、すっと呼吸が楽になる。
されて嬉しいことは、私も返したい。
もらってばかりの私から君に何か返せるような言葉はないだろうか。
時々、任務にも関係のない本を借りては読んでみる。見つけた詩に一喜するのに、肝心の君を前にした瞬間、言葉にできなくなるのだから参る。
どうかこんなみっともない状態が君にバレてしまわないようにと願うばかりだ。
心の中に君に送りたい言葉の数々が星の数だけ溜まってゆき、時々、私は苦しくなる。
この気持ちを、君みたいに的確に言葉にできたなら、どんなに良いか。
そんなことを思いながら今日もまた、私、鉢屋三郎と不破雷蔵の関係に相応しい言葉を見つける為、本を探している。
四年最後の授業も終わり、来月からいよいよ五年生へと進級する。
四年生になりたての頃、一度断念した本――天文詩を再び開いたのは、同室の雷蔵が大量に借りてきた蔵書の中にふとその背表紙を見つけたからだった。
図書室の奥底。貴重な兵法書の棚とも違う。あまり人気のない本棚から引っ張ってきたのだろう。
うっすらとかぶった埃を手で払う。
本を邪険に扱っては雷蔵に注意されてしまうから、ここは丁寧に。
そうして、珍しく一人だけの真夜中の長屋で私は、その本を開く。
航海や天候、占いに使われているという天文学の知識を四年生の初期には触り程度にしか理解できなかったのが、今となっては思いの外、読めるようになっていた。
辞書を片手に読み進めて半刻。しかし、ページをめくるごとにどうしてこんな本を読まにゃならんのだという気持ちがふつふつと増していく。
正直なところ、星を読む方法ならこの国にも既にあるのだから、異国の知識に頼らずとも良いのに。
心の中で反発しながらも、結局は最後のページまで読み切った。
どうして私がこの退屈極まりない知識の本を最後まで諦めずに読めたのかというと、本の中、後半に語られた“星座”という概念をみつけたからだ。
星々が織りなす南蛮の星座図に描かれたそれらは、まさしくこの国の夜空の概念にはない神秘の軌跡だ。
星座には四十八もの種類がある。
中でも双子座という星座を見た瞬間、同室の男の横顔がぱっと浮かんだ。
不破雷蔵。私とは真逆をいく男。
あまり自分の意見を言わない雷蔵とは違い、私は自分の意見をはっきり言う。
なんでも後輩に譲ってしまう雷蔵とは違い、私はカステラ一つとったって自分が食べたければ譲らない。
関わるはずのない者同士が反発せずに対になる。
それはまるでこの本の中で語られる星座のようだ。
繋がりゆく点と線は、鏡のような私たち二人の関係とよく似ている。
普段、私達の様子を見て、同学年の忍たま達は好き勝手に憶測で物を言う。
「雷蔵が無理をしてるんじゃないか?」
「そんなことないよ。それに……僕は三郎のやんちゃでイタズラ好きなところも結構気に入っているし」
雷蔵がそう答えてくれることに私は満足している。
私達はまるで似ていない。それなのに気があって、気がつけば傍にいる。
「ねぇねぇ、雷蔵。本当のところ、私のこと、どう思ってるの?」と二人の時に聞いてみると、読んでいる本から顔を上げて雷蔵が当然のように答えた。
「僕にそんなことを聞くのはお前らしくないじゃないか。観察して探るのが三郎だろ?」
あぁ、好きだ。この男の言葉に、思考に、どうしようもなく惹かれてしまう。
同時に、この微妙で曖昧な距離感が学年を重ねるごとに、少しずつもどかしくなってきている。
私は怖い。自分の気持ちを正直に話すことが。
それだけ私にとっては不破雷蔵という男の存在はあまりにも大きく、決して失いたくはないものなのだと、自覚だけはしている。

プロローグ 不破雷蔵に告白できない鉢屋三郎の話
何もかも完璧だ。任務は十全十美、何事もなく終わった。それなのに、どうして私の心はこんなにも鬱々としているのだろうか。
青い空。桜が風に吹かれて花びらを散らす。
実習は成功。今は学園に帰る前に団子屋に寄って、三食団子を食べている。
口に含む団子は本来疲れた身体を癒してくれるはずなのに、あまり食べた気がしないのはどうしてなのか。
原因は、自分でもわかっている。
今まで心通わせていると思っていた同室の不破雷蔵が、今回の任務の直前になって、突如として「僕、三郎とは一緒にいかないよ。単独任務に行くことになったんだ」と言い出したのだ。
雷蔵の口から語られたあまりの衝撃の内容にしばらく頭が真っ白になった。
「学園長先生と担任教師の許しは得ている」と言われ、言い返す言葉すら見当たらない。
そんなこんなで、雷蔵を一人長屋に残し、急遽同じ五年ろ組の竹谷八左ヱ門と二人での実習が決まったのだ。
八左ヱ門には悪いが、これには溜息をつかずにはいられなかった。私は五年生になって初の実戦任務、雷蔵と二人でこなすのをずっと心待ちにしていたのだから。
隣に座る竹谷八左ヱ門を見ると、ちょうど真剣に耳を澄ませて何かを探している。何を探しているのだろうと、三郎も一緒になって耳をそばだてていると、どこからか鶯の鳴き声が聞こえる。八左ヱ門が団子そっちのけで探していたのはどうやら桜の中に隠れたその鳥だったようだ。
「あそこだ」と桜の枝が不自然に揺れている場所を指さして、目を輝かせる。その表情は晴れやかで、私は全身全霊を尽くして生物を愛し、没頭する八左ヱ門が今は少し羨ましいとさえ思った。
満足したのか団子を食べ始めたところで、声をかける。
「なあ、八左ヱ門」
「どうした、三郎」
「今回の任務、私達は無事終えたわけだが、一つ疑問がある」
「その疑問ってのは?」
「何故、雷蔵は単独任務を望んだのかということだ」
「あー、それでお前ずっと拗ねてたのか」
「私を子供みたいに言うなよ、八左ヱ門」
「悪い悪い。俺さ、実は雷蔵からちょっと話を聞いたんだ。今回の単独任務で雷蔵は自信を持ちたいんだって言ってた。自分が忍者として一人でも生きて帰ってこれるっていう自信。五年生になったらまず最初にどうしても試したかったんだって。まぁ、わからなくもないけどな。あと、多分、三郎も原因の一つだと俺は思ってる」
「私が? どうして」
「普通、単独任務は五年生から始まるものだけど、三郎は四年生の頃からちょいちょい行っていただろ?」
「あぁ……」と思い当たる節がいくつかあって、納得する。
「俺には雷蔵の気持ちが少しわかる気がするんだ。いつも一緒にいる三郎が優秀で、武芸も達者、無敗神話は破れず、単独任務までこなす男だったら、隣りにいるのが不安になることもあるだろう」
「雷蔵は雷蔵のままいてくれたら私はそれでいいのに……」
「お前はな? だけど雷蔵はそうは思っていないんだろう。その結果が今回の話に繋がる。あいつは多分、自分がどこまでできるか試したいんだ」
「それにしたって、単独任務だなんて……」
「だから拗ねるなって。お前なぁ、恋仲の相手が頑張ろうとしてるのに、それはないだろ」と言いながら団子を口に含んだ。
「えっ?」
「えっ……俺何か間違ったこと言った……?」
「八左ヱ門、残念ながら私と雷蔵はまだ契りを交わしてはいない」
八左ヱ門が数秒間、固まる。そして、口に含んでいた三食団子をごくりと飲み込んだ。
「俺はてっきり三郎と雷蔵はもうそういう仲なのかと思っていたんだが、まさか、三郎……あれだけべったりくっついて四六時中一緒にいる雷蔵に思いを伝えてすらいなかったのか……?」
「雷蔵と私に言葉などいらない、と言いたいところだけど本当は私だってちゃんと胸の内を伝えておきたいと思っている」
「おほー……大丈夫だ。お前ならできる」
「簡単に言ってくれるなよ。今更すぎて逆にどう言ったらいいのか悩ましいんだ。私達は常に一緒にいるわけで、いつでも言えると思うと、なんだかんだで機会を逃してしまう」
「あのさ、三郎。雷蔵は雷蔵なりにちゃんと三郎のことを受け止めてくれるって俺は思うぞ。あいつは三郎に五年間も顔を貸してきた男だ。今更、三郎の恋慕が追加されたって微々たるものだろ……」
「……八左ヱ門は心の機微ってものをまるで理解してない」
「悪い悪い。まぁ、そう怒るなよ。お前たち二人のことはお前たちが一番わかってるだろうから俺から言えることは一つだけだ。雷蔵の単独任務はもうすぐだ。伝えたいことはちゃんと伝えられる時に言っておいた方が良くないか?」
この意味わかるだろ? と五年生になったばかりの一週間で長屋の空室が急に増えた現実の厳しさも突きつけてくる。
学年が上がるごとに今までと同じとは言えない重みが肩にのしかかる。一年生の頃、夢に見た忍者と言う存在は今や現実の厳しさを伴って目前に迫っていた。
「なんだなんだ? 八左ヱ門、私に恐車の術を使うのか?」
「茶化すなって。単に俺は同じ五年ろ組として三郎を心配してるだけだよ」
そろそろ気持ちを伝える頃合いなのかもしれない。
頭ではわかっている。
だけど、どうしても行動ができない。
雷蔵に甘えていると言われれば確かにそうで、言わずして許されているぬるま湯のような関係に甘んじてきたのも確かだ。
「……今日は雷蔵、図書委員会の当番だったよな……忍術学園に帰ったら会いに行ってこようかな」
「おほー、三郎、やる気だしたみたいだな」
チャンスはあった。
幾度も。
それを今日まで先延ばしにしてきた。
今の状態が良くないことくらい自分でも重々承知している。
学園に戻ると「実習の結果は俺から学園長先生に報告しておくから、三郎は雷蔵のところに行って来いよ。じゃあな、頑張れよ」と三郎の肩を軽く小突いてから八左ヱ門が走っていく。
返事をする間も与えてくれなかった。
その背中を見送った後、ゆっくりとした足取りで図書室へ向かう。
雷蔵に気持ちを伝える。
つまり、今までのあやふやな関係とは違い、しっかりとした線引きをするということになる。
怖い。私の“好き”と雷蔵の“好き”がもし違っていたら?
考えたくはないが万が一にも可能性がないわけではない。
もしそうだとしたら、私はどうなってしまうのだろう。
言わない方がいいのかもしれない。少なくとも今の距離感を私は心地よいと思っているわけだし。
だが、先程の八左ヱ門の言葉も一理ある。言える時に言っておく。
その言葉は確かに理にかなっていると言える。
やはり伝えておくべきか。
まるで雷蔵の迷い癖が移ったように思考を繰り返していると、あっという間に図書室の前まできてしまった。
覚悟を決めて、ふすまを開ける。
貸出受付用の長机に雷蔵の姿はなく、奥まで進むと、棚の下に何か落としてしまったのか、懸命に手を伸ばしている雷蔵がいた。
「とれた。はあ~~~良かった」と、巻物を片手にほっとしているところで「雷蔵」と声をかける。
雷蔵がこちらを見て、「三郎!」と明るい声と共に笑顔になる。不思議と初夏の日差しのような温かさがあるその表情が私はたまらなく好きだ。目に収めるだけで穏やかな気持ちになる。
「おかえり。任務はどうだった? 怪我はない?」と言われて、そういえば危険を伴う実習から帰ってきたばかりだったなということを思い出す。
「ああ、完遂さ。無事、何事もなく帰ってきたよ」
こうして雷蔵と二言三言、言葉をかわしただけなのにホッとしている自分がいる。手にとるようにわかる。私はやはり雷蔵のことが心の底から好きだということ。
雷蔵を本棚に追い詰めるようにして近づいて、しゃがみ込む。
「どうかしたの?」
大きくてまん丸い目が見つめてくる。どこか可愛げがあるこの表情は未だに私でもうまく真似できないんだよなと思う。
「……何にもない」
「何にもなくはなさそうだけど」
雷蔵は三郎が自分から何か言い出すまでじっと待っていてくれた。
無防備にぽけっと開いた唇がなんとも愛らしくて、その頬に手を添える。
雷蔵が察したように目を閉じる。
その唇をそっと吸った。
雷蔵は一瞬肩をビクリと震わせたが、口吸いをされるがままに受け入れてくれる。
私達はどうしてはっきりとした言葉もなく、ここまできてしまったのだろう。
言葉無くとも互いを許す。この歪な関係に名を。そう思うのに、私はまた後回しにしてしまう。
「雷蔵、また後で。夕飯時に」と立ち上がり、雷蔵に背を向けた。
後ろから「三郎」というかすれた声が聞こえたが、気が付かないふりをして図書室を後にした。
✦
就寝前。
本を読む雷蔵の背中に声を掛ける。
「おやすみ、雷蔵」
「あ、待って、三郎」
布団に入ろうとしていた私の前に正座する雷蔵の方を、なんだか気まずさが勝って見れずにいると、唇の横あたりに軽く口吸いをされる。
驚いて見上げると「おやすみ、三郎」と微笑まれた。してやったりと言いたげな、いたずらっぽい笑顔だった。
このまま勢いで好きだ、愛してる、慕っていると言ってしまえばいい。
簡単なことだ。
だけど、簡単なことだから、いつでもできる気がして声に出せない。
「僕もそろそろ寝ようかな」
呆けてる三郎をよそに、少し頬を赤らめた雷蔵が蝋燭の明かりを消した。その姿は一瞬で暗転し、頬に差していた赤みも暗闇に紛れてしまう。
雷蔵が隣の布団に入る気配を感じながら、しばらくして三郎自身も布団の中に身を沈めた。
——単独任務はもうすぐだ。伝えたいことはちゃんと伝えられる時に言っておいた方が良くないか? この意味わかるだろ?
私の雷蔵に限ってそんな不測の事態なんてあるはずがない。そう思うのになんだか背中がゾワッとして、「雷蔵」と呼んでみる。
再び起き上がって隣の布団を見ると、雷蔵は既に夢の中で、穏やかな寝息を立て始めていた。
✦
「その顔を見ると駄目だったらしいな、三郎」
朝、朝食の席で竹谷八左ヱ門がやれやれという風に言った。
「どうかしたのか? 三郎」
「三郎、何か失敗しちゃったなら元気が出る豆腐なんて作ってみたんだけど食べるかい?」
「勘右衛門、何も無いから探るな。兵助、豆腐はあとで頂こう」
余計な詮索を始めた五年生の面々を捌きながら八左ヱ門をじろりと睨むと、ごめんごめんと顔の前で両手を合わせた。
忘れていたが、この男の口の軽さは五年生の中じゃ有名だった。
「本当に大丈夫なの、三郎?」という雷蔵に流石に申し訳なくなったのか、八左ヱ門が口を開いた。
「いやぁ、違うんだ。昨日、実習の帰りに、会計委員会から予算を増やしてもらえるかどうか掛けをしていてだなぁ。そのことなんだよ。他意はない。本当だ」
「次こそは成功させてみせるさ」
「ふーん」と八左ヱ門を見て、それから三郎へと視線を移す。再び朝食のだし巻き卵を口に運び始めた雷蔵に、二人はようやく胸をなで下ろした。
五年間という長い間、心の奥底に隠していた“慕っている”という言葉は想像以上に重みを持っていて、そう簡単には口をついて出てはくれない。次こそはと豪語してから時間があっという間に過ぎて、その日はいよいよ来てしまった。

第一章 不破雷蔵は記憶をなくす


背中につーっと嫌な汗が伝う。
状況は最悪と言って良い。
細い木の枝に片腕で掴まり、視界は不安定に揺れている。
見上げれば登りようのない断崖絶壁と黒い雲に覆われた空が見える。見下ろせば、深い霧に包まれた谷底が手招いている。さあおいで、落ちておいでと言わんばかりだ。まさか実習の最後の最後にきて、こんなことになるなんて全く想定外だった。
こういう時こそ冷静に。
不破雷蔵は耳を澄ませた。
かすかに水が流れる音がしている。谷底の下は恐らく川だ。印地のために拾ってあった石を懐から出して落としてみる。石が岩肌を転がり落ちていく音をひい、ふう、みい、よお、と数えたが、谷底まで距離はかなりありそうだった。うまくいけば生きて帰れるかもしれない。五分五分といったところだろうか、いやそれ以上に悪い状況かもしれない。
岩壁に生えた枝。雷蔵がぶら下がっていた一本のそれが悲鳴のように軋む。
あまり考える時間もないようだ。
この状況、非常にまずい。
あぁ、三郎がここにいたら、もう少し違っていたのかな。一瞬、馴染みの顔を思い浮かべる。
今回の単独実習、開始から既に二日経っている。たった二日なのに、もう二日も三郎に会えていないと思う。
こんな時に、僕の中にある三郎の存在の大きさを実感させられる。
軋む枝の音が否応なしに現実に引き戻す。今は目の前のことに集中しなければいけないのに、やたらと悪い方に頭が働いてしまう。
三郎がいてくれたら、こんな窮地でも難なく脱せられただろうな。
もしかして、このまま二度と会えなかったりして。
そんなのは嫌だな。
だけど、この枝はもう、もたないだろう。
額からぽたりと伝った冷や汗が谷底に落ちていくのを見ながら、ふと最近、図書室で見つけた詩集の中の一文が頭に浮かんだ。
恋しとよ君恋しとよゆかしとよ
逢はばや見ばや見ばや見えばや
三郎、お前に会いたいよ。
その瞬間だった。枝が折れた。
✦
その笑顔がこちらに向けられる瞬間、どんな疲弊した心さえも、雪のように解けて、代わりに好きだという気持ちで胸がいっぱいになる。私にとって雷蔵の笑顔というものはそういうものであるはずだった。
雷蔵が任務から戻ってきたのは、桜の花びらを無惨にも地面に叩き落とすような大雨の朝だった。
雷蔵は気を失って、呼吸も弱りきっており、学園についた今もまだ目が覚めていない。
瀕死の不破雷蔵を見つけたのは鍛錬中の七松小平太だったという。
雷蔵が七松小平太によって保健室に運ばれたと聞いた時、三郎はじめ五年生はいてもたってもいられずに駆けつけた。
「来たか」という七松小平太とその隣でいつも以上に無口な中在家長次が既に保健室前に待機していた。気配をほとんど消しているが、他数名一定距離を置いて保健室の様子を見に来ている忍たまもいるようだ。
二人にお辞儀をして廊下で控える。
先輩二人の口から、まだ雷蔵の意識は戻っていないということ、任務の内容は城の護衛になりかわって戦の情報を一つ掴むというものだったという話を伝えられる。
三郎は竹谷八左ヱ門と目配せする。八左ヱ門の目を見て確信した。おそらく今の話を聞いた上で、三郎と八左ヱ門は同じことを思っていた。
今回の単独任務、確かに一人でこなすには危険も伴うものだが、雷蔵にこなせないものとも思えない。ましてや自らの足で学園に戻れない程痛手を追うなど、五年間も一緒に時を過ごしてきた二人には到底信じられなかった。
保健室の中からは善法寺伊作と新野先生の声がかすかに聞こえる。慌ただしそうにしているのが中に入らなくても伝わってくる。
今は待つ時だと三郎もわかっていた。
ただ何も出来ずに、佇んでいる。
それが苦痛だった。
通夜のような空気の中、保健室の外で待機していた関係者は誰一人として喋らない。八左ヱ門も雷蔵が所属する図書委員会委員長の中在家長次も、いつもは有り余る体力で大騒ぎしている七松小平太ですら雨の中、静かにその時を待っていた。
一帯に異様な緊張感が漂っている。今は憶測で物事を語れるような状況でもなく、誰もが口をつぐむ他なかった。
ただ土砂降りの雨が土を叩く音だけが延々と続いている。
しばらくして、善法寺伊作が保健室から出てきて皆の顔を見渡し「揃ってるね」と続けた。
「先程、雷蔵が目を覚ました。命に別状はなく、全身を打撲、かすり傷を負っている状態だ。全治二週間程度だから、ひとまず安心してくれていい」と発したが、その顔はいつものように朗らかに微笑むこと無く真剣なままだ。
「それから、これから話すことを、どうか落ち着いて聞いてほしい。特に五年生の皆」
皆が短く返事をして頷くのを確認してから、伊作もまた頷き、続きを話し出す。
「体は一先ず無事で、他に目立った外傷はなく、命に別状もない。だけど少し様子がおかしい。雷蔵に一体何があったのかわからない。今の雷蔵には学園で過ごした記憶がほとんどないみたいなんだ。覚えた戦術や兵法などの知識は残っているようだけど、この学園で関わってきた人達の記憶を忘れてしまっている」
しばらく皆が重く沈黙する。一番最初に口を開いたのは三郎だった。
「それじゃあ、私のことも雷蔵は……」
伊作が三郎から目を逸らし、気まずそうな顔で言う。
「残念だけど今はまだ……」
たまらず駆け出す三郎とその後を追う八左ヱ門を上級生達はそれ以上引き止めなかった。
「しばらく五年ろ組だけにしてやろう」
「もそ……それがいい。私も時間を空けて後ほど様子を見にくる」
「そうしてやってくれ。記憶が無い雷蔵自身は平気そうにしてはいるけど心細いはずだ。なるべく今まで通り、学園で過ごせるように皆で協力していこう。雷蔵は僕達にとっても大事な後輩だからね」
早く、一刻も早く、雷蔵の姿をこの目に。その様子を確かめたくて、保健室のふすまを開ける。むせ返りそうな薬の匂いがして、それから全身に湿布や包帯や塗り薬を塗られた雷蔵の姿が見えた。
「善法寺伊作先輩が言った通りだ。本当に僕とそっくりだね」と笑いかけてくる。
「僕、記憶がなくなってしまったらしくて、君が噂の鉢屋三郎くんかな?」
今まで幾度も見てきたその笑顔が今日ほど切ないと思った日はなかったと思う。
目の前が真っ黒になった。今一番戸惑っているのは不破雷蔵なはずなのに。私はひとまず駆け寄って、任務に出かけた日よりも痩せた雷蔵をしかと抱きしめる。
後ろから、竹谷八左ヱ門が同じく三郎ごと包むようにして無言で抱きしめてくる。
言葉にならない思いが全身を駆け巡る。
どうして雷蔵がこんなことにならなければいけないんだ。理解が追いつかない。
だが、今はこの体が無事だったことをひとまず喜ぶ他無い。
「僕を心配してくれる人がいて、なんだか嬉しいよ」
何言ってるんだと思う。
「当たり前だろ……よく帰ってきてくれた」
やり場のない怒りにも似た感情を殺して、苦し紛れにそう答える。
「鉢屋三郎くんも、竹谷八左ヱ門くんも、心配してくれてありがとう」
しばらくして、今日はひとまず二人とも長屋に帰りなさいと新野先生から言われ、素直に従った。
廊下を八左ヱ門と二人でゆっくり歩き始める。
「生きているなら、希望はあるさ」
八左ヱ門の言葉に、三郎は唇をきゅっと噛みしめた。
✦
それから毎日、雷蔵の見舞いに行った。
たとえ記憶がなくても、私にとって不破雷蔵は相変わらず、一番大事な存在だから。
雷蔵のことを痛ましくも悲観していた自分が恥ずかしくなるくらい、雷蔵は懸命に両手からこぼれ落ちてしまった記憶を取り戻そうと必死になっていた。少しでもそんな雷蔵の手助けになれたら私は嬉しい。
三郎の顔を見つめて不思議そうな顔をしている雷蔵が言う。
「僕は君に変装されていつも何て言っていた?」
「よく褒めてくれたよ。そっくりだって」
「そっか。確かに、鉢屋の変装は、変装された僕にしか見破れないくらい完璧だもんね」
「嫌じゃない?」
「もちろん、嫌じゃない。ここまで見事に変装されたらむしろ嬉しいよ。僕はそんな表情もできるのかって、新しい発見もある」
「私は……君の顔をこれからも借りていてもいいのだろうか?」
「うん。僕は以前から君に顔を貸してたって、善法寺伊作先輩から聞いていたし、僕自身も嫌じゃないって思ってる。ただし、僕の顔で悪さをしないと約束しておくれ」
私たちは出会いから互いを認め合うまでの歴史を全てをもう一度やり直している。
雷蔵と言葉を交わすごとにその道筋はそう遠くないようにも思えた。
「私は何度も雷蔵に救われている」
「僕……まだ色々と思い出せなくて、ごめんね」
雷蔵の言葉に首を横に振る。
雷蔵の表情が翳る。そんな顔をさせたいわけじゃない。なんだか自分自身がとてつもなく無力で不甲斐ない気がした。
「生活していく上で記憶も徐々に思い出せるかもって、新野先生が仰っていたから、僕もあんまり気張らずに少しずつやっていこうって思ってる。ねぇ鉢屋、僕からも少しいいかい?」
「三郎」
「え?」
きょとんと驚いている顔の雷蔵を見て、これは少しずつ刷り込んでいかねばなるまいと覚悟を決めた。
「三郎って呼んで」
「うん、三郎。僕にもなるべく変わらず今まで通り接して欲しい。下級生には僕の記憶が無いことは秘密にしたいから、皆にもなるべく今まで通り接してほしいってお願いしてるんだ。心配させたくないんだ。僕は多分うまくやれると思う。何となくそんな気がするから」と続ける雷蔵に頷く。
「承知した。雷蔵の為ならなんだってするよ」
「お前は大げさだなぁ」
「大げさだなんてことあるもんか」
次の日もそのまた次の日も、雷蔵の元に通った。
「やぁ雷蔵」と言うと、ぱっと明るい笑顔で「三郎、きてくれたんだ」と雷蔵は微笑む。
「本、読んでたのか?」
雷蔵の膝の上にある本を見ると、六韜と書いてある。異国から船で運ばれてきた兵法書だ。
「もうここにいるのが退屈になってきてしまって、いくつか貸してもらったんだ。だけどこの本、僕は前にも読んだことがあるみたい」
「へえ、じゃあどんな内容だったか私にも教えてくれる?」
「もちろん、いいよ」
雷蔵の知識に関する記憶には、問題はなく、ただ本当に忍術学園の人間のことを記憶から消してしまったといった具合だ。
「記憶が無いってぽっかり胸のあたりに穴が空いているような、そんな感じがする。何か思い出せそうな、むずむずする時もある。僕は何を思い出したいんだろう。そのうち思い出せたらいいなって思ってるんだけど」
「雷蔵なら、できるさ」
私の雷蔵。
どうか、少しでも早くその苦しみから解放してやりたいと願う。
それから三日程で、雷蔵が長屋に戻ってきた。
「三郎の素顔を見ないように僕もなるべく配慮するから、何か不便があったら遠慮なく言ってくれ。ところでこの衝立はしておいた方がいいのかな」
壁際に置かれた衝立を持ち上げようとする雷蔵を留め、衝立に寄りかかった。決して動かせないように。
「そんな衝立など私と雷蔵の間には必要ない。頼んだ時だけ背を向けていてくれたらそれで構わない」
雷蔵は「わかった」と頷いて、それからくすくすと笑った。
「僕と三郎はとても仲良しだったんだね」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、お前の顔を見てるとわかるよ。同じ顔だもの。考えてることがなんとなく読める気がするんだ。今お前嬉しいって顔してる。へへ、当たってる?」
まるで記憶が戻ったんじゃないか? そう思えるくらい、記憶をなくしても雷蔵は雷蔵のままだ。
五年生の面々もやっと雷蔵が戻って元気そうに三郎の隣を歩いているのを見て、寄ってきては声をかけてくる。
「雷蔵、記憶はなくてもお前の身体は無事なわけで、これは悲観しているバヤイではない。祝うべきだろう。後で、学園長先生の部屋に隠してある南蛮菓子、カステラを贈呈しよう」
尾浜勘右衛門は記憶が無いなんてさほど大したことじゃないさと、雷蔵に対して陽気に接した。
「そうだぞ、そもそも戻ってこられない奴だっているんだ。雷蔵、俺は豆腐料理を持っていくよ。もちろん、食べてくれるよな?」
まだ何も知らない雷蔵は久々知兵助の言葉に「ありがとう」と微笑んでいた。
「雷蔵、この豆腐小僧には要注意だ。いいか、一人の時に声をかけられても焦らず、まず私を呼ぶんだぞ? それからこっちのうどん髪の男は、腹黒いが団子を渡せば大抵のことは聞いてくれるはずだ。桃太郎のきび団子で動く動物だとでも思えばいい」
「おい、三郎、俺達を何だと思っているんだよ」
「ええい、うるさい。今私は雷蔵に英才教育を施しているんだ。邪魔をするんじゃない。それに悪い虫がこの無防備な雷蔵につかないようにしないと」
「必死だよ……」と久々知兵助が青ざめる。
「雷蔵のことになると三郎は見境がなくなるからなぁ。八左ヱ門、なんとか言ってやれよ」
勘右衛門が呆れて、八左ヱ門に助け舟を出した。
「三郎、兵助と勘右衛門は虫じゃないぞ」
「ツッコむところそこなんだ。流石生物委員会委員長代理。俺、い組で良かったって思うよ勘右衛門」
「俺もだよ、兵助。ろ組にはついていけないよな」
そんなこんなで雷蔵と再会の挨拶も終わって満足したのか勘右衛門が足早に去っていく。兵助だけが、まだ何か言いたげにして、それから諦めたように勘右衛門の後に続いた。
その意味をその日の夕方に味わうはめになろうとは、今の三郎は知る由もない。
夕方、食堂の奥にある台所に久々知兵助と不破雷蔵が立っていた。
「なぁなぁ、俺の豆腐どう? 美味しいだろ? みてくれよこの艶。綺麗だろ?」
「兵助は豆腐のことが大好きなんだな」
「豆腐小僧って呼ばれてるくらいだからな。将来は忍者じゃなくて豆腐屋かもしれないとも噂される程、豆腐好きで通ってる。俺もまぁ豆腐屋になるのも悪くないかもなって最近少しだけ思っているんだよ」
豆腐のことになると止まらなくなる平助を見て、雷蔵が呟く。
「本当だ。美味しい。確かに兵助は豆腐を愛しているって感じがする。この味でわかる」
「そうだろ? わかってくれるか?」
「なぁ、兵助、僕も兵助みたいに、何か大好きだったものがあるのかな」
「雷蔵……」
「あーーーーーーーー雷蔵、こんなところにいたのか!!」
三郎が食堂の入口から慌てたようにやってきて、雷蔵のおでこに触れ熱を測り、両頬をペタペタと掴む。口端に溢れる豆腐なし。よし、豆腐地獄未遂だったようだ。兵助から逃げるならまだ間に合う。
「三郎、ちょうど良かった。俺から二人にたっくさん豆腐料理を作ったんだ。夕飯前の腹ごしらえに、さぁ、どんどん食べてくれ。鍛錬してお腹が空いただろう? 遠慮せず、さぁさぁ」
「三郎、美味しそうだし、せっかくだから一緒に食べようよ」と純真無垢な笑顔を向けられれば頷かずにはいられなかった。
「雷蔵、本当に食べるの?」
「うん! だって少しお腹も空いてきたし」
「……心得た」
雷蔵が言うなら仕方ない。たとえ未来が豆腐地獄だったとしても、沼に飛び込んでやろうじゃないか。そして数分後には二人ともこの場から全力で逃走する羽目になるのだった。
✦
両手いっぱいに本を抱えて、幸せそうな顔をして帰ってきた雷蔵に声をかける。
「雷蔵、図書委員会の活動どうだった?」
三郎の言葉に雷蔵は少し興奮した面持ちで頷く。
「後輩達は真面目で優秀で、僕が最近怪我をしたのを知っていて、物凄く心配してくれた。とてもよい子達だ。それから、中在家長次先輩は無口だけど、大変お優しい方だった」
不破雷蔵がまさか記憶をなくしているなどと知らない後輩達は最近任務で雷蔵がただ怪我をしたとだけ知らされている。後輩にえらく慕われている雷蔵のことだ。きっと図書委員会の面々は皆、その真っ直ぐな瞳で雷蔵のことを心配したに違いない。
「そうか、充実していたようで私まで嬉しいよ。ところでその本、どうしたんだ? 伊勢物語、源氏物語に貴船の本地……どれも恋物語や恋慕に関する詩集のようだが」
「……えっと、その……三郎あのさ」
なんだかソワソワしている雷蔵に違和感を覚える。次第に顔も赤くなっていくその異変に三郎の顔が強張る。
――は? 記憶をなくしてこの方、こんなにも表情豊かな雷蔵を初めてみたんだが。一体委員会で何があったっていうんだ。
一旦落ち着こうと、軽く咳払いをしてから、返事をした。
「……どうした、言ってみてくれ」
「僕は誰かをとても慕っていたような気がするんだ。それって一体誰なんだろうって」
どうしてそんなことを言い出したのか。
三郎は雷蔵の両肩をがしっと掴んだ。
「ちょっと、待って、雷蔵。タイム。何があった?」と問い詰める。
「別に、な、何も無いよ」
何か、絶対あっただろ?
しかし、声にならない三郎の心の叫びは届かない。
「知らないならいいんだ。だけど僕はしばらくその相手が誰だったのか、探してみることにする」
鉢屋三郎、十四才。
今までの人生で一番、後悔している。
どうして私は雷蔵に告白をしなかったのか。時間を巻き戻せるのなら、戻って雷蔵に気持ちを伝えたい。それから、二人、契りを交わしてしまいたい。
なのに自分の不甲斐なさ故に、今私達の関係はただの同級生で、同じクラスで、同室の関係に過ぎない。
私達は好き同士だったんだ。そう言ってしまいたい。だけど、言えるはずもなく、ただ胸の痛みを感じながら途方に暮れている。

第二章 不破雷蔵の恋していた人は誰だ
僕は記憶を失った。だけど不思議とその記憶は悪いものではなかったような気がする。だから、失くしたというより欠けてしまったと言った方がしっくりくるのだと思う。
記憶喪失といっても種類があるらしく、善法寺伊作先輩は僕に襲い掛かった症状を詳しく教えてくれた。
「頭を打ったってわけでもなさそうで、心象的にショックなことがあったのかもしれない。解離性健忘と言ってね——」
話を僕なりに要約すると死を間近に感じた瞬間、脳が防衛本能で記憶を消したということらしい。
考える時間だけはたっぷりあったから、保健室で一人、障子から漏れる光を見つめながら幾度も考えた。僕はなぜその記憶を消してしまったのか。その度に結論がでず、眠くなってしまい、まどろむ瞼には抗えなかった。
けれど、それでも一つの答えが僕の中に湧いて出た。
必ずしも僕が忘れてしまった記憶が悪いものだったとも言いきれない。
それから僕は眠くなって、また目を閉じた。
昔からこうだったのだろうか?
たくさん考えると、疲れてすぐに眠くなってしまう。
目を開けると、天井が見える時もあれば、読みかけの本のページの途中だったり、時々僕そっくりの顔をした鏡のような男が覗き込んでいる時もある。鉢屋三郎だ。
鉢屋三郎は僕を気にして、色んな話を聞いてくれる。
どこまで記憶があるのか試そうと言って、六韜という難しい兵法書の内容について聞かれた。自分でも驚くほど内容を覚えていて、すらすらと戦術が口をついて出る。
「あってるかい?」と問えば、鉢屋三郎は頷いて「あってるよ。流石だな、雷蔵」と一言褒めつつも正誤を教えてくれる。
どうやら僕は本格的にこの学園で忍者を目指して鍛錬してきたらしい。知識は豊富で、いざ戦場に立っても動ける自信があるから驚きだ。
現状、頼りになって気がつけば側にいてくれる男、それが鉢屋三郎という存在だった。
鉢屋三郎と過ごした後は必ず何かを思い出せそうなのに、記憶を引き出すまではいかず。もどかしいなと思っていると、意図せず涙がこぼれ落ちるようになってしまった。
僕は泣き虫だったのかな。そんな風に感じるくらい容易に涙が出てくる。
この涙は一体どういう感情からきているのだろう。
悲しい気持ちもするし、嬉しいような、一言では表せない複雑な感情が押し寄せて、いっぱいいっぱいになって、それからじわじわと目元が熱くなる。その繰り返しだ。
✦
体の調子も良好で新野先生からもう長屋へ戻って問題がないと言われたので、戻ることにした。
「おかえり、雷蔵」と迎えに来た鉢屋三郎と竹谷八左ヱ門が長屋まで案内してくれた。
学園生活には思ったよりもずっと自然と馴染めた。記憶がないと知った上級生も、記憶がないことを知らない下級生も、親切に接してくれたことが大きかったと思う。
図書委員会の活動に初めて参加した時のことだった。後輩の下級生達が活動を終え図書室を出ていった後、二人だけの部屋で中在家長次先輩が僕に教えてくれた。
僕は記憶を無くす前、中在家先輩に何か相談事をしようとしていたということ。そしてその約束の日に、学園長先生の急な思いつきで六年生に任務が入ってしまい、結局話が聞けなかったということ。
中在家先輩はその相談の内容を知らないが、最近の僕の貸出履歴を見ると恋愛に関する書物ばかりを借りていたということまで判明した。
——慕っている相手のことで何か悩んでいたのかもしれないな。
中在家先輩に相談を試みようとする程に悩んでいたことなら、僕の記憶喪失と関係があるのかもしれない。だって、この忍者養成の為の学園において人に悩みを打ち明けるだなんて余程のことじゃないか、と思う。
兵は詭道なり。騙すならまず味方からという教えのある中で、五年生にもなる自分が相談事をするなんて、やはりどう考えても行き詰まっていたに違いない。
探る価値は大いにある。
長屋に帰り、同室の鉢屋三郎にも聞いてみたが三郎ですら僕が慕っていたという相手を知らない様子だった。
不破雷蔵は静かに覚悟を決めた。
記憶が消える以前に慕っていた相手を探す。
これが当面、心の奥底に据える目標になった。
図書室の当番をしながら今日もまた、そのことについて考えていると、大量の貸し出し図書を回収してきた中在家先輩が戻ってきた。
「雷蔵、この間話していた件だが、手探りで探すのは精神的にもきついと思う」
「確かにそうなんです。僕、全然思いつかなくて」
「ならば一番近い者から一人ずつ検討していくのはどうだろう……」
「近い者……なるほど、流石、中在家先輩。それならできそうな気がします」
中在家先輩が図書委員会の後輩達からも慕われている理由が、僕もわかる気がする。
先輩は博識で決断力があって冷静で……僕は実はこの先輩を慕っていたなんてこともあるのか? とも考えてはみたものの、先輩に関しては尊敬の一言しか思い浮かばなかったので早々に候補から外した。
後輩達は僕を見ると第一声に「不破雷蔵先輩ですか? それとも不破雷蔵先輩に変装した鉢屋三郎先輩ですか?」と聞く。それから「鉢屋三郎先輩、この間は変装の極意を教えて頂きありがとうございました。紅を替えてから顔に馴染むと評判なんです」とくノ一教室の女の子達に言われる。
僕の側には常にあの鉢屋三郎という存在がいたのだと周りが教えてくれる。
中在家先輩は、一番近い者から検討していくのはどうかと言ってくれたけど、僕にとって三郎という忍たまは今のところ“好き”の対象とは言い難い。
三郎はお節介焼きで、面倒見がよくて、心配性で、自分のことより僕を優先する節がある。僕はもちろんその三郎をありがたいとは思うけど――。
長屋に戻ってからも悩みは続く。
「うーん、でも違う気もするような……ああ、駄目だ、わからない」
唸った後に、しばらくして悩みすぎて眠る。その繰り返しの合間に、気が付けば三郎が絶望的な顔をして見つめている時がある。
「雷蔵、雷蔵、起きてくれ」
「んあっ、ごめん、悩みすぎて寝ちゃった」
「あのさ、俺は?」
三郎が自らの指で三郎自身を指し示す。
「え?」
「雷蔵が好きだったのは俺だったりして?」
危機として迫るように言われたのだが、僕は首をかしげる。
「うーん……三郎は、“慕う”というより、“家族”みたいな存在なんだ」
「嬉しい。その言葉、嬉しくないわけがない。確かに嬉しいけど、雷蔵と私の関係は家族という二文字ではどうにも説明できないはずだ」
頭を抱えてのたうち回る三郎が膝を貸してくれと泣きついてくるのを好きにさせ、僕は再び深い思考の海に溺れていった。
体中の打撲や傷も治り、実戦形式の授業にも参加できるようになった。
他の五年生と共に鍛錬に参加し始めて自分が愛用している武器の印地を片手にするとしっくりくる。体が使い方を覚えているのがわかる。
雷蔵の印地捌きに、皆が賞賛してくれるのを見ると、どうやら記憶を無くす以前と比べても変わらず衰えていないとわかる。
「雷蔵、そろそろ休憩したらどうだ?」
「うん。そうさせてもらうよ」
そわそわと心配していた三郎が声を掛けてきた時だった。流れてきた手裏剣が僕の元へ飛んできて、三郎に肩を押される。
「雷蔵、危ない」
そのまま藪の中に突っ込んで二人、重なり合うようにして転んだ。
「雷蔵、怪我はない?」
「無いよ。三郎こそ大丈夫?」
「私も平気さ」
「ねぇ、三郎はどうしてそんなに必死に僕を助けてくれるの?」と見つめる。
三郎は「知りたい?」と言う。
「うん」と答えると三郎の顔が徐々に近づいてくる。不思議とこんなにも近くに自分とそっくりな顔があるのに嫌ではなくて、僕はそのまま三郎が何をするのかじっと待っていた。
三郎が目をつぶる。僕はそのまま目を開く。
唇に柔らかいものが触れて、それからどれくらい時間が経ったか。僕にとってはとてもゆっくりで長い時間に感じられたけど、本当はほんの数秒のことだったのかもしれない。
ただ時が静かに過ぎて、向こうで他の五年生達が鉄の武具を交える音が響く。
二人の姿を周囲から覆い隠していた雑草が風で揺れてさらさらと音がした。
しばらくして、三郎が僕の顔を覗き込む。
二人の視線が交じり、僕は呆けたように固まっていた。
三郎が拗ねたように目を伏せて言った。
「雷蔵はこの間、私を家族と言っていたけど、私はそうは思っていないから」
そんな答えになってない答えを言い残し、何事もなかったように立ち上がると、僕に手を差し伸べた。
僕は間抜けな顔をしたまま、その手を掴んで立ち上がった。
草むらから戻ると八左ヱ門が驚いた顔をして、僕を見る。
「おいおい、どうしたんだ雷蔵? 顔が真っ赤だぞ」
熱か? と心配そうな八左ヱ門の言葉に「大丈夫」と返す。
隣に立つ三郎は涼しそうな顔をしていたけど、その首筋がほんのり赤らんでいるのが見えた。
僕はその日、確かに三郎と口吸いをした。
訓練の後、顔を洗っている時、三郎の唇の柔らかさを思い出すように、一人、自分の口に触れてみる。
どこか無性に懐かしい気持ちになって、そのままタオルに顔を埋めて深呼吸をした。
この気持ちは、一体何なのだろう。苦しくて、心臓もうるさく跳ねる。
一人で抱えるには有り余るこの胸の痛さに、まだはっきりした言葉が見当たらない。

第三章 その口吸いの意味を聞いて
朝、白粉を唇にあてた手が、ふと止まる。
昨日の口吸いを思い出し、ため息が漏れた。
――やってしまった。
無防備な雷蔵と藪の中で唇を重ねたあの瞬間が、ふとした拍子に何度も蘇る。
驚いた雷蔵の顔が忘れられない。
――三郎は、“慕う”というより、“家族”みたいな存在なんだ。
“家族”と思っている相手から急に口吸いをされたら、それは驚くだろう。当然の反応だ。でも、私はどうしても雷蔵を諦められない。その想いを、どうにかして伝えずにはいられなかった。
今の雷蔵はまるで吹けば飛んでいってしまう綿毛のようだ。
放っておけば、いつの間にか私以外の他の者の腕に収まって「この人が僕の慕っている人だったんだ」なんて見知らぬ者の隣で微笑んでいるかもしれない。
そんな未来、想像するだけで胸が潰れてしまいそうだ。
強行とも言える行為をしたことは反省している。雷蔵を戸惑わせてしまったかもしれない。だけど、今の私にはあれしか思いつかなかった。
すやすやと寝息をたてる雷蔵を見つめながら許してくれと思う。
――本当は記憶のない君に、私の一方的な心の内も伝えてしまいたい。だけど、それが良いものかすらも、私にはまだわからないんだ。
✦
放課後、学級委員長委員会の予算で合法的に買った煎餅を頬張る。
口の中に甘じょっぱい風味が広がった。
「ヤケ食いは太るぞ」と隣でぼやく尾浜勘右衛門に「今は私を止めないでくれ」と嘆いて机に突っ伏す。
「鉢屋先輩は最近、本当に不破雷蔵先輩以外の変装をしませんよね」
「不破雷蔵先輩のことで何かあったのでしょうか……?」
「確かに最近の三郎はほとんど雷蔵の顔でいる気がするね。何かあったのは確かだろうね。……変装の達人が聞いて呆れる」
学級委員長委員会の黒木庄左エ門、今福彦四郎が心配する中、尾浜勘右衛門がビシッと厳しく罵った。どうとでも言ってくれと思う。
会話を半分聞き流し、煎餅を食べ終えると、私はふらっと立ち上がった。
「後は頼んだ勘右衛門」とか、言ったと思う。
それから気がつけば、学級委員長委員会の茶の間から出て一人、竹谷八左ヱ門の長屋まで来ていた。
中に入ると、虫かごの手入れをしていた八左ヱ門がやっときたかという目で見てくる。
「三郎、お前また雷蔵に何かしただろう?」
「なんでまたそんなことを言い出すんだ」
「雷蔵、最近ため息ばかりついているからな。そういう時の原因は大体が三郎だと相場が決まっている」
「反省は、している」
「雷蔵に関してはいつもそれだな、三郎。ちゃんと口に出して雷蔵に真意を伝えないとって俺、前にもお前に言ったよな?」
「八左ヱ門は雷蔵に何を聞いたんだ」
「口吸い」の一言で一刀両断された気分になる。
「言ったのか、雷蔵が」
「違う。見たんだよ、この間の。三郎、また胸の内を伝える前に手を出したな?」
「雷蔵には悪いと思ってる。だけど仕方がなかったんだ……それに……」
「なんだよ」
「それに……記憶のない雷蔵に一方的に私から気持ちを伝えていいのかわからないんだ」
「それは、確かにわからなくもないけどな……」と八左ヱ門がしばし考えてから続けた。
「やっぱり言ったほうがいいんじゃないか?」
「私にはまだ、それがいいことなのかわからない」
「まぁ、そうだよな。だけど、なあ、最近、図書委員会の活動中や放課後に雷蔵、告白されてるの知ってるか?」
「は? 何て?」
「雷蔵の奴、最近毎日一回は同学年や上級のくノ一や忍たまに告白されてるぞ」
「……冗談だよな? 雷蔵は私にそんなこと一言も言わなかったぞ」
「そりゃ、雷蔵だってもう十四の忍たまだ。隠し事の一つや二つあるに決まってるだろう。試しに図書室へ行ってみろよ。今日もさっき、呼び出されたからって雷蔵は向かったぞ」
「……私、ちょっと行ってくる」
ああ、胸が痛い。
わかっていたはずだ。成績優秀、頭脳明晰、しかも優しい雷蔵がもてるなんてこと。ましてや記憶を失くした雷蔵に、ここぞとばかりに告白する輩が出てくることだっておかしいことじゃない。
✦
図書館のふすまを開ける前に、中から声がする。
「雷蔵先輩、私……先輩をずっとお慕いしておりました」
裏から出したような甘えた声が部屋に響く。どうやらくノ一のようだ。
「えっと……その、ありがとう。嬉しいよ」
そこまで聞いて、耐えられずに図書室の前で踵を返す。
なんだか、面白くないなと思う。
私はこんなにも必死なのに。
こうも簡単に記憶がないことにつけ込んで自分の心を告白していく輩が、気に食わない。
何がありがとうだよ。何が嬉しいだよ。ちっとも面白くない。
「雷蔵も雷蔵で嬉しそうな声だしちゃってさ」
雷蔵の顔を借りて隣にいるのは今までもこれからも私だけだとずっと思っていた。許されるならば、ずっとこの先も。そんなことを安直に考えていた。
雷蔵を一番慕っているは私のはずなのに。
ああ、ああ、どうしてこんなに切ないのだろう。
それに今の私は雷蔵に家族だと思われている。
「もしかして私、既に失恋してたりして」
言葉にして、膝から崩れてしまいそうだった。
✦
夜中、なんとなく言葉を交わしづらくて、早々に布団に入った。
「三郎、今日は寝るの早いね」と微笑みかけてくる雷蔵に寝たふりをする。
あまり話をしたい気分でもなかった。
「僕も今日は早く寝てしまおうかな」と部屋の明かりを消して、雷蔵が隣の布団に入る。
しばらくすると寝返りをうってこちらを向いた雷蔵が「三郎」と名を呼んだ。
「起きてるんでしょ?」
「……起きてない」
「今日、夕方、図書室の前にいたよね?」
黙っていると、それを肯定と捉えたのだろう。雷蔵が続けて問いかけてくる。
「聞いていたんだろ? あの時の図書室での会話」
「……だったらなんだ?」
「僕、あの子のこと断ったよ。僕はあの子に慕っていると言われた瞬間、何も感じなかったから」
嬉しいとか言っていたくせに。
「そうか……話はそれだけならもう寝るぞ」
「三郎、もう一つ。この間、お前からその……口吸いをされた時のこと、なんだけど……僕なんだか懐かしいような気がしたんだ。もしかして僕達は以前もあぁいうことをしていたのだろうか」
その時、雷蔵は一体どんな顔をしていたのか。明かりのない夜の部屋で三郎がそれを見ることは叶わなかった。
さて、どう答えたらいいか。まごついていると、暗がりから伸びてきた雷蔵の手が、三郎の唇に優しく触れた。
他の者なら決して許さないこの行為を、雷蔵にだけは許せる。
「前もしたことがあったと言ったら、雷蔵はどうする?」
「三郎、もう一回、お前と口吸いをしてみてもいい?」
「今から?」
「駄目かな」
「……心得た」
小さくだがはっきりと「ありがとう」と答えが返ってきた。
それから、隣で寝転がっていた雷蔵が三郎の布団に身体を滑り込ませて、ぐっと距離を詰めたのでしれっとその腰に腕を回す。
「なんか、改まると緊張してきた」
「私だって同じさ」
呼吸がわかるほどの距離でぼんやりと待っていると、雷蔵がそっと三郎の口に吸いついて、すぐに離れた。
「何か思い出せそうな気がするんだ。お前と一緒にいる時や、話をした後、口吸いをした時。でもずっと思い出せなくて」
「じゃあ思い出せるように、君が許す限り、私は雷蔵の側にいるよ」
雷蔵の癖毛に触れ、一房すくってその長い髪に口づけをした。
徐々に暗がりに慣れ始めた目で雷蔵を見る。雷蔵はうるんだ目で、髪に口づけする三郎を見ていた。それから恥ずかしそうに目を伏せた。
「もう一回、してみてもいい?」と弱々しく呟く雷蔵の唇に今度は三郎の方から口吸いをした。
「んっ……」
二度、三度とゆっくりと重ねては離れてと繰り返す。
“もう一回”なんて言葉を互いに忘れたかのように何度も。三郎の口が離れると今度は雷蔵の方から口吸いをして、しばらく迷って、それからまた雷蔵のタイミングで再び唇が重なる。
「心臓がうるさくて、胸が痛い。僕はどうしてこんな気持ちになるのだろう。わからないんだ……」
雷蔵の気持ちの整理が落ち着くまでその言葉を聞いていた。
悩んでいた雷蔵がしばらくして寝息を立て始める。
その頬に口づけをすると、唇が少し濡れていた。すぐにそれが雷蔵の頬を伝った涙だとわかる。
「おやすみ、雷蔵」
寝息とともに穏やかに揺れる肩に布団をかけながら、私はやはりこの男を手放せそうにないと思う。
その晩は久々に二人、朝まで身を寄せて眠った。
――それから私は覚悟を決め、一つの策を練った。ふと梅雨の今の時期ならではのあの花が頭に浮かんだからだ。策の要となるのは私達二人の長屋。押し入れに入っているとある木箱だ。

第四章 押し入れの箱
あの夜。布団の中で二人、口吸いをして以来、雷蔵は自分が誰を慕っていたのかという疑問を口に出さなくなった。
今の雷蔵の悩みはもっと違うことに向いているらしい。
図書委員会の当番を手伝いに来た私は雷蔵を観察する。
ちょうど貸出カードを見つめながら雷蔵が悩み始めたのでどうしたのか聞いてみた。
「僕がこの貸出履歴を遡って読んでいるのはお前も知っているだろう? その中に一つだけ無い本があって、どこにいってしまったのだろうって悩んでいたんだ」
雷蔵が指で示した先。
梁塵秘抄。これは今より一昔前に作られた古臭い詩集だった。
最近の雷蔵は誰を慕っていたのか探るよりも、記憶を取り戻す方に躍起になっているようだ。少しでも手がかりになりそうなものには手を伸ばし触れていく。その姿に、私も隣で手助けしたくて「一緒に探そう」と並んで貸出履歴や本棚を確認した。
生徒達の貸出履歴や台帳とにらめっこしてしばらく。やはり雷蔵が言うようにその本はどこにも無い。
「ねぇ、三郎。もしかして、万が一にも長屋の掃除をしたら出てきたりしないかな?」
きっかけはこんな偶然だった。
「それは名案だ。私もそろそろ掃除をしないとって思っていたんだ」
委員会活動を終えて、夕飯までの間、二人で長屋の掃除をすることにした。
「私はこっちをやるから雷蔵はそっちを頼む」
「うん、わかった」
すんなりと分担を決め、掃除を始めてすぐのことだ。
雷蔵が押し入れを開けた。
一番奥の隅にひっそりと置かれたその箱を見つけ、手にとる。
木目。正方形の木箱。丁寧に研磨された箱はさわり心地が滑らかそうに見える。
見える、というのは私、鉢屋三郎は決してその箱に触れたことがなかったからだ。
「これって僕の私物?」
「そうだ。ちなみに言っておくが私は、一度たりともその箱に自ら触れたことはない。誓える」
それは雷蔵への敬意でもあった。
雷蔵は一年生の時から私と同室だが、一度も私の化粧道具に許可なく触れたことがなかった。だから、私もまた雷蔵の数少ない私物のそれを今まで勝手に弄ったりはしてこなかった。ちなみに、箱に触れたことはないが、中身を知らないとは言っていない、と心の中だけで付け足す。
たまたま、雷蔵が箱を開けた時に見てしまった。ただそれだけのこと。不慮の事故とでも言っておこう。
箱のことを何も知らないふりをして、長屋の表の掃除をし、部屋に戻るとどうやら雷蔵は中身を確認したらしい。
畳の上に座った雷蔵の隣に、蓋が閉められた木箱と、手元には麻袋が握られていた。
隣に腰掛けて「それは匂い袋?」と、とぼけたふりをして聞いた。本当はその袋の中身を私は知っている。
「ううん、違う。中に花が入っているけど、無臭なんだ」
麻の巾着を渡されて香りを嗅いでみたが埃っぽい匂いがするだけだった。
紐を緩めて中を確認する。
中に入っていたのは紫陽花の真花や額の部分を乾燥させたものだ。
酸化して所々茶色みを帯びているが、私にとっては眩しいほどに懐かしい。
「紫陽花は匂い袋の主役にはなれないけれど」
二人だけの思い出の言葉。知っているのは私と雷蔵だけで、おまけに今、世界でこの花にまつわる思い出を覚えているのは私だけ。当然記憶を無くした雷蔵はこの先を覚えていない。
不意に三郎の言葉を雷蔵が引き継いだ。
「美しさ故に人を魅了する。 ――あれ、僕どうしてだろう。この言葉、前にも言ったことある気がする」
しばらく雷蔵を呆然と見つめていると「僕今、何か変なこと言っちゃった?」と困り顔をする。
今起こったことがあまりの衝撃で、しばらく固まる。
――紫陽花は匂い袋の主役にはなれないけれど、美しさ故に人を魅了する。
その懐かしい言葉を、今、確かに雷蔵は口に出した。
心配そうに覗きこんでくる雷蔵の手を掴んでぐいっと抱き寄せる。わっと驚いた声が聞こえたが構わずその腰に手を回した。
「すごいぞ雷蔵。今のは一年生の頃、君が私に言った言葉だ」
「そうだったんだ……忘れていたはずの言葉が出てきたのは嬉しい。それに、これは三郎と過ごした記憶なんだと思うと尚更……」
「私も嬉しいよ」
「ねぇ、雷蔵。今週の休みに私と出かけない?」
「うん、いいよ。どこ行くの?」
「私と、この紫陽花が咲いていた場所を見に行こうよ」
私の首元に顔をうずめていた雷蔵がどこかホッとしたように息を吐く。
梁塵秘抄の行方は分からなかったが、私達は確実に前へと進んでいる。
確かにそう思えた。
✦
私の青みのある肌の上に真逆の黄丹色の白粉を重ねながら昔のことを思い出していた。
一年生の時。
雷蔵のふりをして図書委員会に潜り込んだ私が、中在家先輩を変装で騙そうとイタズラしていた最中のことだった。
生傷の絶えない先輩は、しかし今よりずっと通りのいい声で言った。
「雷蔵、最近植物図鑑をよく読んでいるが、何か気に入ったものや気になるものはあったか?」
「はい、中在家先輩。その、えーっと、うーっんと……」
予想外の質問に、本当になんて答えようか迷っていたのと、偶然雷蔵の悩み癖が重なったのが功を奏したのだと思う。
「この間、雷蔵が話していたあの花については、金楽寺の帰り、けもの道に自生していたぞ」
「その花って、確か」
「四葩……紫陽花だ」
梅雨のじめじめした時期に人知れず咲く花が頭に浮かぶ。木々が伝う雨水を幾粒も受け、枯れずに咲き続ける花。
中在家先輩と雷蔵が一体どんな話をしたのか想像もつかないが、私はその時初めて、雷蔵が紫陽花を気に入っているのだと知った。
「ありがとうございます。三郎と一緒に行ってみます」と答える。
一瞬、中在家先輩は私を訝しむように見たが、何も言わなかった。
今の言い方のどこが悪かったのか。多分、今の言葉でバレたのだと思う。
何故か、中在家先輩は昔から私の変装を見破る。それも雷蔵の変装をしている時ばかり。図書委員会の絆とでもいうのか。私も変装の達人として観察は得意だがあの生き字引と呼ばれる先輩の推察力もなかなかだと思う。
あの人の場合、辻褄から物事を判断するのに長けている。流石、図書委員会委員長になられるだけある。そして、そんな中在家先輩に対して雷蔵が尊敬の眼差しを向けているのをその隣からずっと見てきた。
後日、金楽寺の和尚様のところへ届け物をする帰り。
先輩に言われた通り、いつもの帰り道から外れ、けもの道の方に行く。
後ろをついてくる雷蔵は、「どうしたの? 三郎。急にこんな山奥に入るなんて。そっちに何かあるのかい?」と疑問を発しながらも後をついてきてくれた。
「雷蔵に良いもの見せてあげる。しかもこの道は時間も短縮して、なんならその先では茶屋があって一休みも出来てしまうという算段だ」
「そんな道、一体どうやって知ったんだ? 誰かに聞いたのかい?」
「中在家先輩」
当然のように答える私に、後ろで雷蔵が苦笑いをする。
「お前、また僕のふりをして図書委員会に潜入したな? ……で、どうだった?」
「バレた」
「流石は中在家先輩だ」
私はこの雷蔵の言葉が昔から好きじゃない。流石といって目を輝かせて、それから尊敬している中在家先輩を褒め称える。面白くない。
「私も途中まではうまくやれてたんだ」
「なら次はもっと上手くやれるはずさ」
雷蔵にそう励まされて、すぐさま私の心は晴れる。雷蔵といると胸の内が忙しない。
けもの道に入った時は順調だったのに、通り雨が降り出して、山は表情を変えた。山の中にはどこからともなく霧が湧いてきてさっきまで見えた目前の道も一寸先を隠してしまう。
冷え込む山奥。菅笠を忘れ、二人。
森の奥で雨宿りをした時のことを今でもよく覚えている。
大木の下で雨を凌ぐぎながら、ちょうどそこにあった大岩の上で身を寄せて座る。
雨具を持ってくるべきだったと不甲斐なさに後悔する。
「ごめん。私のせいで」と落ち込んでいると「お前のせいじゃないよ。近道をしようがしまいが僕達は山の中で雨にあっただろうし、雨宿りできる場所があるのはついてると思わないかい? それに、見てよ三郎」と呼ばれる。
膝を抱えて下を向いていた私は、隣の雷蔵の方へと視線を移す。雷蔵は目を輝かせて、指先で何かを指し示していた。
山紫陽花だった。
「こんなところに咲いてるなんて」
本当はこの為にきたのだと、言おうとしたがなんだか今更な気がしてやめた。
「雷蔵、紫陽花好きなの?」
「最近、図書室の図鑑で見たから」
「そうなんだ」とは答えたが、当然、中在家先輩との会話で事前に知っている。
雷蔵がほんわか、ひだまりのような笑顔を私に向ける。そのまん丸い大きな瞳に私を真っ直ぐ映して言った。
「紫陽花は、匂い袋の主役にはなれないけれど美しさ故に人を魅了する。なんだか七変化が得意な三郎みたいだろ?」
唐突に自分と紫陽花を結びつけられるのに驚いて私は多分、雷蔵のマスクで間抜けな顔をしていたと思う。だって、こんな不意打ちを決められるなんて思いもしなかったのだから仕方がない。他にどんな顔ができよう。
「それに、こんな雨でも辛抱強く咲き続ける。変装の努力を常に怠らないお前みたいで僕は好き」
私はそんな雷蔵が好きだよとその時思ったのを覚えている。
雷蔵との会話をずっと胸の奥で大事に思ってきた。目をつぶればあの大岩の上に今でも戻れるくらいには鮮明に覚えている。
鏡を手に取って白粉を塗った顔のチェックをする。雷蔵の体調に合わせて化粧の色はちゃんと調整した。抜かりは無い。
朝は晴れていたが、空気がじめっとしていた。今日の雷蔵の寝癖は、と振り返り、まだ布団の中でぐっすりと眠る雷蔵の髪を観察する。普段ならそのまま寝癖に合わせるのだけれど、今日は寝癖を直して整えておきたい気分になったので、自分を雷蔵に寄せるのではなく、雷蔵の寝癖の方を直すことにした。
いつも通りのヘアピースよりわずかに湿気を帯びたカツラを取り出す。椿油でも完全に湿気は止められないだろうから、少しうねったものを選んだ。
雷蔵が起きた時、この油を塗ってやったら、ちょうどこれくらいの毛量に落ち着くだろうと考えていると布団からもぞもぞと寝ぼけた雷蔵が這い上がってぼけっと上半身を起こす。
「おはよう、三郎……ごめん、寝すぎた」
「そんなことないさ。雷蔵、起きて早々に悪いけど櫛だけ通させて」
「うん……」
癖毛に手を伸ばし、梳いていく。
寝ぼけ眼の雷蔵は今日は随分と大人しい。自分でやるよとか、一言抵抗する日もあるけど、今朝はされるがままだった。まだ少し寝ぼけてるのかもしれない。
雷蔵の髪に、椿油を塗っていく。これで湿気はなかば阻止できて、私の選んだヘアピースと同じくらいの膨張具合になったはずだ。
「菅笠を持って行った方が良さそうだね」と、一年生の頃とは違いすっかり天気にも余念がない私達は笠菅を片手に、二人おそろいの服を着て出かける。
「三郎、今日はいつもより嬉しそうだね」
「よく気づいてくれた、雷蔵。今日の私の変装は完璧だろう?」
「いつも完璧だと思うけど」
「やはり休みの日の方が準備にも時間を取れるんだ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
雷蔵の髪に触れて、アピールしてみたが、首を傾げるばかりだった。
この無頓着さがたまらない。
今日、向かう場所はかつて一年生の頃、二人で雨宿りしたあの森だった。
低学年の忍たま達にとっては難所とも言える金楽寺を覆う森。山にはイノシシやクマもおり、野生や自然の脅威と隣り合わせのこの場所だが、五年生となった今では庭のようなものだ。
幾度も駆けたけもの道を歩いていくと、その先に変わらず、今も山紫陽花が自生していた。
紫陽花、綺麗だねと嬉しそうな雷蔵だが、「三郎、僕はここに前にも来たことがあるんだよね? 全然覚えてないや」と少しさびしそうだった。
「しばらく、のんびりしていこうか」
「じゃあ、昔話を聞かせてよ、僕と三郎の昔話」
「そうだなぁ」
あの時座ったのと同じ岩の上に腰掛けてしばらく二人、紫陽花を眺めながら話をした。
「手始めに一年生の時、雷蔵が私の作ったマスクを欲しいと言い出した話でもするかい?」
「それ、本当に僕から言い出したの? 聞きたい」
それから、私達から雷蔵へ記憶を共有するように色んな昔話をした。マペットを作ることになった話や熱を出した日のこと、初めて女性に変装した七変化の訓練や、野営訓練の夜や臨海実習のこと。話し出すと色んなことがまるで夜空の星の数ほどあるような気がする。実際ある。私達が過ごしてきた時間を話すなど、いくら時間があっても足りるわけがない。
ポツポツと雨が降り出したのはちょうど二人して腹を抱えて笑っている時だった。
雨が土を弾いて辺りに土と雨の匂いが香り始め、森全体がいつもより静寂に包まれ始める。話すのをやめて雨の様子を窺えば、周囲が静けさに包まれる。雷蔵の隣で感じる梅雨特有の空気が心地良い。
「記憶はないけど僕は、お前とたくさんの時間を過ごしてきたんだね……」
静けさを破ったのは雷蔵だった。
「ねぇ三郎、僕はお前のことを慕っていたのかなって思うんだ。こんなに一緒にいて安心する人、この一ヶ月他にいなかったし、あぁ、でもまだ確信ではないけど、その、僕はまだ記憶が戻っていないから……なんて」
――やっぱなんでもない。忘れて。
照れたように俯く。
「私は雷蔵の心を知らない。なんせ雷蔵自身の口からはっきり気持ちを聞いたことがないんだ。だけど、私の気持ちを伝えることはできる。雷蔵、聞いてくれる?」
雷蔵が一つ頷く。
心臓がバクバクとうるさい。
慕っている。その一言じゃ物足りない気がして、私は一つ一つ言葉を選んで雷蔵に打ち明け始めた。
「一年生の頃、雷蔵はこの紫陽花の花をみて、私のようだと言ってくれた。思えばあの日から私は雷蔵を恋慕の意味で意識し始めたと思う。私は、雷蔵の考え方が好きだ。悩み癖のある君が悩んだ末に決める決断もいつも待ち遠しくて仕方ない。雷蔵の口から紡がれる謀策を誰よりも早く隣で聞いていたいって思っている。それから雷蔵の変装をどう仕上げるのか、試行錯誤する日々も結構、否、かなり気に入っている。私の変装は完璧なはずで、なりきるのも得意だけれど、まだまだ雷蔵にはなりきれていない。他の忍たまを騙せても私自身を騙せていないんだ。何年やったって雷蔵自身の魅力に追いつけてない証拠さ……つまり、何が言いたいかと言うと……雷蔵、私は君が好きだ。私が雷蔵を慕っているということを心の片隅にどうか置いてくれないだろうか」
あぁ、五年間。
長い間胸の奥に留めていた思いをやっと声に出した。
「お前って、案外真っ直ぐな奴だよね」
「真っ直ぐな私は嫌かい?」
雷蔵が首を横に振る。
「……嫌だったらこんなところ、一緒に来ないよ」
その頬に手を添えると雷蔵が顔をさらに赤くしてこちらを向いた。その唇に自ら唇を重ねようとした瞬間、木々の間から一滴、水滴が垂れてきて、雷蔵の瞼に落ちる。
うわっと声を上げ、雷蔵が驚く。
雷蔵は「冷たい」と笑い声をあげた。
雷蔵らしい、ひだまりのような温かい笑い声。つられて三郎も笑った。
雷蔵の顔に残る水滴をそっと拭ってやる。水滴に濡れたまつ毛がとびきり綺麗に見えた。私はこんなにも整った美しい者の顔を借りさせてもらっているんだなと思う。
「本当は、ずっと言おう言おうと見計らっていたんだ。だけど結局今日まで言えずじまいだった。こんなタイミングで君に心の内を明かしたことをどうか許して欲しい」
「三郎、僕は……」
どう答えようか迷っている。その雷蔵の気持ちが今は手に取るようにわかった。
「君は記憶も無い中で、まだ手探りなのもわかっている。だから急がずにどうかゆっくり私との関係を考えていってほしい」
「ありがとう。お前は優しいね。その優しさにいつも助けられている気がする」
それから二人は雨の中、雨が弱まるまでの間、視線が交じればどちらからともなく口吸いをした。
「帰ろう、雷蔵」と言い、雷蔵の手を握って歩く。
「お腹が空いたな。団子屋でも寄って帰る?」
「うん。そうだね。それにまだもう少し二人でいたいんだけど、三郎は?」
「私も」
それから目的もなく二人、ぶらぶらと散歩して、夕方までの時間を過ごした。
✦
翌朝、急な要件ができたと学園長先生に呼ばれた不破雷蔵が長屋に戻ってきて、衝撃の内容を話し始めた。
「僕、単独任務に行くことになった」
「な、何言ってるんだよ、雷蔵」と三郎は動揺が隠せない。即刻、学園長室へ抗議に行こうとして止められた。
「ダメだよ、三郎」
「学園長先生は一体何を考えておられるのか。雷蔵、私を止めないでくれ」
「落ち着いてってば。僕の話を聞いて」と、思ったよりも力のある雷蔵に引き止められ、立ち止まる。
雷蔵の手によって畳の上に引っ張られたのでそのまま雪崩れるようにしゃがんで、座り込み、不貞腐れて胡座をかいた。
「何故、雷蔵一人なんだ。納得がいかない」
「実は先生方からこの話を頂いた時、ペア任務でも良いと言われたんだ。だけど、体は元気だし、忍たまの友の内容や今まで培ってきた授業の知識も、戦い方も僕の体はちゃんと覚えてる。だから、僕の方からこのまま単独任務でお願いしますって頼んだ。お前だってわかってくれるだろ? 僕はこの前の任務、失敗したままじゃいられない。僕一人でもやれるって証明したいんだ」
確かに、ここ数週間、雷蔵とは何度も手合わせをした。
雷蔵の印地捌きは紛うこと無く、記憶を無くした今も健在だ。兵法書の中身もしっかりと知識として雷蔵の中にある。その点、雷蔵が言うように確かに問題はないのかもしれない。
「雷蔵のいない長屋は淋しいから」
「うん」
「もうあんな思いは御免だ」
「ねぇ、三郎、僕はお前に助けてもらってばかりではいけない気がする。いつでもお前が助けてくれるなんて甘んじていてもいけないって思ってる」
「私がしたくてしいてるだけで……」
雷蔵は首を横に振ってから続けた。
「この機を逃したくないんだ」
――わかっておくれ。
迷い癖のある雷蔵が迷わずにそう言う。決断をした雷蔵を止められる者などこの学園にはいない。ましてや、その美しい決断がなされる瞬間を一番に愛している私が差し止めるなど、できるわけもなかった。
嘘でも、心配しなくても、ちゃんとここに帰ってくるよ、なんて言葉は雷蔵の口から語られない。私達はいつも死地と隣り合わせなのだと口の中に広がる苦い思いを噛み殺した。

第五章 戻る記憶とそれから

あの日と同じ土砂降りの雨の中。
あの日とは違い、意識を保ったまま、自らの足で菅笠を被った不破雷蔵が帰ってきた。
鉢屋三郎は忍術学園の門の前からその姿が近づいてくるのをしばらく待っていたが、たまらず駆け寄って、その肩を抱き寄せて喜んだ。
緊張した面持ちを解き、雷蔵が「ただいま」と言う。その表情が和らぐ。ようやく終わったという安堵が、顔に浮かんでいた。
「どうだった?」
「ちゃんとこなせたよ」
「流石は私の雷蔵。雷蔵ならできるって信じてた」
私がいなくとも、という言葉は飲み込んだ。
「ありがとう。三郎を見ると無事やり遂げて帰ってきたって感じがするよ」
小声で「お前が喜んでくれて嬉しい」と付け加えたのを当然、三郎は聞き漏らさなかった。
「当たり前さ。あと、これだけは言っておくが、次の任務からは私も絶対に一緒に行くから」
「またそうやって、先生方を困らせてはダメだろう?」と苦笑いする雷蔵に、今度は三郎が小さな声で何かを呟いた。その声を雨が掻き消す。
「三郎、何? 聞こえなかった。もう一回言ってくれ」と促す雷蔵の耳元で今度こそ言ってやる。
「不破雷蔵あるところに、鉢屋三郎ありだから。そうだろ?」
雷蔵は半ば認めるような目で三郎を見た。
「正直言って、お前がいてくれた方がもっと上手くやれたかもって思った局面もあったよ」
その言葉が三郎にとってどれほど嬉しかったことか。雷蔵はつゆ知らないだろう。
それから雰囲気をぶち壊すようにして、出門表を抱えた小松田秀作が迫る気配がして二人して笑った。
「三郎、もしかして外出届出してこなかったの?」
「こんなの外出の内に入らない。必要ないだろ」
「それはどうかな?」
はーちーやーくーんー、出門表にサインしてくださーーいという大声に苦笑いする二人だった。
✦
学園長室の縁側に腰掛けて雷蔵が任務の報告をするのを待っていた。
その間、穏やかな離れから庭を見渡し、三郎は一人ゆっくりと考える。
今回、危険を伴ってはいたものの、雷蔵は見事単独任務をこなして帰ってきた。
任務を達成して学園までちゃんと帰ってきた雷蔵の姿を脳裏に浮かべて改めて思う。
あの日、雷蔵を襲った予測不能の事態というのは一体どんなものだったのか。
自らの足で帰れないほど、雷蔵を陥れたものとは。
あの日の雷蔵の任務は、確か城の護衛になりかわって戦の情報を一つ掴むというものだった。そんなものが雷蔵にとって難しい課題には正直思えない。
だとすれば、何か予測不可能な者が現れたに違いない。私がそれを探し出して、ことによっては――。
「三郎が悩みこむなんて珍しい」
気がつくと学園長先生へ報告を終えた雷蔵がしゃがんで三郎の方を不思議そうに見つめていた。雷蔵の瞳はどこか冷静だった。観察するように私の様子を見守っている。
「私だってたまには悩むこともある。雷蔵と一緒さ」
「本当に? 何か変なこと企んでいなかった?」
「そんなことはない。もういいの?」
「うん。終わった」
「なら、歩きながら少し話そう」
二人は長屋に向かいながら話の続きをした。
「そういえば今回の雷蔵の課題内容、聞いてなかったね。学園長先生に報告も終わったことだし、やっと君に聞ける」
「それがね、見てもらうとわかると思うんだけど」
雷蔵が風呂敷をこちらに見せるように掲げた。
早いこと中身を確認したくて二人は早足で長屋に戻った。
長屋のふすまを慌ただしく開ける。
雷蔵を先に中に入れ、後から三郎が入ってふすまを閉める。振り返ると雷蔵は既に風呂敷を解いて長机の上に広げていた。
「梁塵秘抄……? 雷蔵の貸出リストにあった、探していた例の本じゃないか」
「今回の課題。近隣の城の書庫に最近寄贈された梁塵秘抄を取ってこい、ってさ」
「ん……? 雷蔵、今、寄贈って言ったか? どういうことだ」
「それがね、小松田さんが誤って忍術学園の図書室にあった本を数冊、馬借便で色んな城に送ってしまったらしくて。いくつかある本の中でこの一冊の奪取が僕に割り振られたみたい」
「あのへっぽこ事務員め」
「そう怒るなよ、三郎。小松田さんもわざとじゃないんだし。それに、へっぽこ事務員って呼び方、下級生の良い子達が真似するからやめろ」
雷蔵はその一昔前の埃被った詩集に対し思うことがあったのだろう。しばらくの間、詩集を片手に木陰や長屋、教室の片隅に座り込んでは考えたり、一節を口に出して詠んでみたりとたっぷり悩みながら読み進めていった。
三郎も雷蔵が詩集を読んでいる間は決して邪魔はせずに、雷蔵マスクの入念な手入れをしたり、完璧な変装のための雷蔵観察や、隣で眠りこけている雷蔵の代わりに下級生の相手をして遊んだりと充実した時間を過ごしたのだった。
時々、本をめくる雷蔵にしれっとより掛かるようにして、三郎も本を一緒に眺めてはみたが、一体どうしてこの本に雷蔵がこだわっているのか、何に悩んでいるのかさっぱりわからなかった。
それから、雷蔵のあの任務の日の調査もしてみたが、目ぼしいものは見つからず、ただ一つ、同じ日、同じ時間に外出していた忍たまが二人いることだけは掴んだ。まさかな、とは思うが、可能性が無いわけでもない。であれば果てしない不可抗力が雷蔵を襲った可能性がある。だがしかし、あくまで仮定でしかない。それ以上に確証を得られるものを見つけることはできなかった。
✦
――不破雷蔵の記憶が戻ったのは、ある一節を声に出した瞬間だった。
任務で近隣の城の蔵から取り戻した一冊の本。梁塵秘抄という詩集を読んでいる途中で眠ってしまった雷蔵の隣に腰掛ける。
雷蔵の投げ出された手に、自分の手を重ねようか迷ってやめた。
夜な夜な夜ふかしして読書に励む雷蔵の昼寝を邪魔したくは無かったからだ。
その無防備な手の横。触れるか触れないかの距離にそっと自分の手を置いた。
木のこぼれ日を浴びながら気がつけば三郎自身も居眠りしていたのだが――。
「あっ、えっと……」と雷蔵の戸惑うような声が聞こえて、再び眠りから覚めた。
寝ぼけ眼をこすって、声のした方を見ると、雷蔵が目を見開いている。
少し泣きそうに揺れるその瞳と真っ直ぐに視線があった。
「三郎、僕、全部、思い出したみたい」
雷蔵は咄嗟に本で顔を半分隠しながら、顔を赤らめる。興奮した様子で言った。
――僕が好きなのはやっぱりお前だった。
記憶を思い出した途端の第一声がそれだった。
✦

✦
二人で急いで戻った長屋。改まるように向き合って正座した。
――あの日、何があったのか今から話すから聞いてほしい。
雷蔵がゆっくり、ぽつりぽつりと語りだす。
あの日、無事任務を終えた僕は追手が来ないか警戒しながら歩いていた。幸いにも潜入した城から僕をつけてくる者もなく、正直、内心安堵していた。
ちょうどその時だった。
正面に見覚えのある背中が見えた。
保健委員会の善法寺伊作先輩と乱太郎だった。
二人は何かから逃げるようにして走り去っていく。
最初はいつものように不運なことがあって、それから逃げているのかと思ったけど、どうも様子が違った。
僕はその時、二人に対して三つ違和感を覚えていた。
二人には、どう見ても不運が襲いかかっていなかったこと。
何も追うものが無いのに、逃げるように急いで道を進んでいたこと。
それから、不自然に笑い声をあげていたこと。
少しの間、立ち止まって考えた。このまま二人と同じ最短ルートで学園まで帰るか、それとも遠回りして違う道を行くか。
そこで立ち止まったのが悪かったと思う。
悩んで迷っている僕の後ろからイノシシが襲ってきて、大雨が降り、土砂崩れが起こった。それからしばらく両手の指で数え切れない程、散々な目にあった。
地運、天運の両方から見放されていたのか、はたまた保健委員会の二人が逃げ切った不運の波に僕が飛び込んでしまったのか。このままでは危ないと思い、遠回りの方の道に向かおうとしたんだけど、時既に遅かった。
今思うと、あの二人は不運から逃げる為に必死に走っていたのかもしれない。こればかりは二人に話を聞いてみないと事実はわからないけどね。
とにかく僕は突如襲ってきた五月雨のような不運の嵐の中を、ひたすら逃げて回ることになった。
不運に巻き込まれて思うんだけど、本当に、善法寺伊作先輩はすごいお方だよ。
次から次へと襲ってくる不運を、いくつもの選択をして切り抜けるってどれほどの決断力があってこそなのだろうかって――。
しばし沈黙する雷蔵に、三郎ははっとして「雷蔵。頼むから、善法寺伊作先輩といたら悩みグセの訓練になるだなんて思わないでくれよ」と差し止めた。
「……うん」
「返事が遅い。本当に頼むよ」
それから、僕は不運の嵐に追い詰められるようにして気がつけば峠の崖まで来ていた。
崖の岩が僕の体重で崩れてそのまま背中から落ちた。かろうじて、岩肌に生えていた木の枝に捕まって転落を免れた。
枝にぶら下がりながら、もしかしたら僕はこのまま死ぬんじゃないかって、嫌な予感がした。
谷底は見渡せない程に霧が深かったし、試しに石を落としてみたけどどうやら相当高さがありそうだった。
このまま落ちたらひとたまりもないだろうなって思って、冷や汗が出た。
そして、捕まっていた枝が折れて僕は谷底に落ちた。
「覚えているのはここまで。運よく受け身をとって川に落ちた後、恐らく少し流された先の川岸で僕は七松先輩に拾われたんだと思うんだ……これは流石に意識もなかったから覚えていないけど」
「それで?」
何をもう終わり、みたいな顔をしているんだこの男は、と三郎は思う。
させないからな。
「まだあるだろ、続き。雷蔵の記憶と梁塵秘抄の関係は?」
雷蔵が苦笑いして上目遣いになる。
「やっぱりそこ聞く……?」
「もちろん、聞きたい」
「ええっと、その……」
「ほらほら、教えておくれ」
観念したように雷蔵が口を開く。
「記憶をなくす直前にお前のことを考えてた。このまま会えなくなるのは嫌だなって。そうしたら以前読んだ梁塵秘抄の中の一節が浮かんだんだ。それがこの詩なんだけど……」
雷蔵が目の前の本をめくってからとある行を指さした。
――恋しとよ君恋しとよゆかしとよ
逢はばや見ばや見ばや見えばや
「意味は、わかってるとは思うけど、お前に会いたいって……思って……落ちる直前、詩を声に出して詠んだんだ。えっと、それで……死を間近に感じた瞬間、僕はお前ともう会えないかもしれないって思ったらそれがとてつもなく苦しいことに思えた。死ぬよりも、お前に会えなくなるかもしれないってことの方が僕には怖かったんだと思う。だけど僕は三郎とは恋仲でもないし、この先僕以外の誰かと三郎が契る日が来るのかもしれないとか色々と浮かんできて……気がついたら記憶ごとお前の存在が僕の中から消えてしまっていた。今回のことは僕の弱さからきた記憶喪失だったんだろうね……って改めてお前に説明すると照れるな。僕は一体何を言ってるんだろうね」
聞いていた三郎はしばらく固まったように無言になった。
「弱さなんかじゃない」
「そうかな」
「それだけ雷蔵を悩ませてきた原因は私にもある。五年間、どうしても言い出せなかった。有耶無耶にしてずっと雷蔵に甘えてきたのは私の方だ。弱いのは私さ」
「お前、本当に僕のことが好きなんだね」
最後の雷蔵の言葉と共に、三郎の首筋がみるみる赤くなっていった。三郎がそっと雷蔵の指先に触れて、二人はしばらく互いに俯きながらも好いている同士、指先が触れる心地よさを感じていた。
✦
記憶が戻ったことはすぐに学園の関係者に知れ渡った。雷蔵とそしてそのパートナーである三郎の二人の生活はこうして元に戻ったのである。
もう少し正確に言えば、少しだけ前進した、とも言える。
✦
初の二人での実践任務を終えた夜。
任務中のことを思い出して改めて普段隣にいる鉢屋三郎の凄さを思い知った。
その身のこなし、判断の速さ、変装の精度。どれをとっても自分が劣っているような気がして、悔しさが残る。だけど三郎の隣に、僕以外の誰かがいるなんて未来はそれこそもっと面白くない。
「僕は存外後輩には欲のない先輩とか、優しいとか言われるけど、僕にだって他の誰にも譲れないものがあるんだって気づいた」
「どうした、雷蔵。そんな真剣な顔して……」
長屋で布団に座って手鏡を見ていた三郎との距離をぐいっと詰めると、三郎が驚いた顔でこちらを見る。
「三郎、僕はお前だけは手放したくない」
首筋まで赤くなっている三郎に構わず続けた。
「僕が記憶喪失していた間、紫陽花の前で、お前は僕に覚えていてほしいと言っていたけど、お前こそちゃんと覚えておいてくれよ」
「その、あの、雷蔵さん……ちゃんと責任とります」
「そうと決まればやることは一つだ」
「雷蔵、任せておくれ。とっくに覚悟はできている」
「僕、図書室に行ってくる」
「うん、図書室に……えぇ? こんな夜遅くにかい?」
「先に寝ててくれていいから」
こうしちゃいられない。僕はこの先、三郎と活躍する未来のために、今この学園で成すべきことが見えた気がした。
雷蔵が颯爽と長屋を出ていく。
ピシャッと閉じられたそのふすまを、残された三郎がただ呆然と見つめる。
雷蔵を追い求めるその手が虚しく空を掴み、あえなく畳の上に落ちた。
「覚悟ってそっち……?」
長屋の部屋であえなくすすり泣いている三郎のことなどつゆ知らず、当の雷蔵は、「なんだか僕、今かなり大胆なことを言ったような……」と三郎に負けじと頬を赤く染めて、長屋から図書室へ向かう。
その足取りは軽やかで、口元は普段よくみられる悩み中のへの字とは違い、ほんのり微笑んでいた。
✦
「おはよう、三郎」
「あぁ、八左ヱ門。おはよう……」
竹谷八左ヱ門は三郎の引き攣った表情と並々ならぬそのどんよりとした空気に閉口した。
正直言って、話しかけたことを後悔している。
周りを見回して、周囲に雷蔵がいないことを確認すると三郎に「どうした?」と小声で尋ねた。
「八左ヱ門。私は卒業まで口吸い以上のことをしないと決めた。これは自分への戒めだ。それまで雷蔵を失わないという私なりの覚悟でもある。もちろん卒業してから先だってずっと私達は常に二人で一つなわけだけど」
「それってなんか微妙な言い方だが、もしかして、睦事を仕掛けて砕けたのか?」
「何を言っているんだ竹谷八左ヱ門くん。私に限ってそんなことあるわけないだろう。ただ雷蔵は毎晩読書でいっぱいいっぱいでそれどころではないんだ。今は私達二人の未来の為に夜ごと励んでくれている」
「なんだか立場が逆転していないか? 今度は三郎の気持ちを雷蔵が聞く必要があるというか、いや、でも二人はこれでいのか……? あー、わからなくなってきた。ま、まぁ、その、いいんじゃないか、お前達らしくて……いや、これも違うか……三郎、何かあったら俺に相談してこいよ?」
最後に、八左ヱ門ががしっと三郎の肩を叩いたのだった。
それから卒業まで二人の睦事はあったのか。それは二人にしかわからないが、確かに距離感は前より格段に近くなっていると五年生や上級生が噂している。
その横を双忍と呼ばれ始めた名物コンビが素知らぬ顔で、通り過ぎるのが日常風景となった。
二人以外、二人のことはわからない。
それは鉢屋三郎があの春の始まりに知った星座のようでもあり、まさしく一対の存在と呼ぶに相応しい。
前半END